本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第5回 トラウマの影響に気付く難しさ / The fifth :Difficulty to notice the influence of the trauma

第4回で、瞑想によって過食症の衝動にすこし対処しやすくなった、ということを書きました。

私にはほかにもトラウマ記憶に起因する感情の混乱をたくさん抱えていて、それぞれ対応する必要がありました。

今回は、いったい私にはどんなトラウマがあって、どんな風に現れ、また心の中で私はトラウマの影響をどんな風に感じていて、どうやって対処してきたのか、その実例を一つご紹介します。

 

私は幼い頃から家庭内では「バカ」「ブサイク」といったふうに蔑称で呼ばれていて、実名で呼ばれることがほとんどありませんでした。また、常にないがしろにされて育ったために、自尊心というものがまったく育ちませんでした。

その影響で、私は人の名前を呼ぶことができませんでしたし、自分の名前を呼ぶこともできませんでした。

人と関わる際に「私が人に好かれるはずはないし、嫌われなくてはいけない」「私のような人間が人の名前を気軽に口にしてはいけない」という思いに駆られましたし、また自分の名前を呼ぶことについては「まともに名前で呼ばれないのが当然の、価値のない存在」という感覚が植え付けられていました。そのため、人の名前を呼ばなくてはならない場面では、なるべくそれを避けて文脈から相手に気付いてもらう、ということを期待して話す、というふうに対処していました。

 

さて、罪悪感や低い自己評価はとても深く私に根付いていたのですが、私は幼い時からずっと「それが当然」という世界しか知らずに生きていたので、トラウマになっているとか、おかしいとか思いませんでした。「相手の名前を呼ぼうとすると、どうしても怖じ気付いて呼べない」「自分の名前を言おうとすると、なぜか必ず主語を省いてしまう」と、ぼんやり思っていた程度です。あと人の名前を覚えるのがすごく苦手、とも感じていました。これがトラウマの影響だと私が理解した出来事をお話しします。

 

大学3年の時のある日、図書館の前で知り合いの女性に会いました。前の年にたまたま一緒の講義を受講し、同じグループで討議や発表をした方です。声を掛けられて、私は「ああ、誰々さん」と、その方の名前を呼ぼうとしたら、名前がちゃんと思い浮かんでいたにもかかわらず、声にしようとした瞬間に、その名前を忘れて「誰だっけ?」と言ってしまったのです。失礼ですよね。以来、その女性と話す機会はなかったわけです。

 

人の名前をど忘れするってことは、たぶん誰にもあるのだろうと思います。そもそも私は他人に対する興味がほとんどなくて、誰であれいちいち名前を覚えようともしなかった、という事情もあったりするのですが、その女性はちょっとかわいらしくて、私としても好感をほんのり感じていたのです。だから、多少印象に残っていて、名前も忘れていませんでした。実際、「誰だっけ」といってしまって、そのまま話をせずに相手と別れた直後には、もうその女性の名前を思い出していました。なんだかおかしいと思って、自分の心の中をのぞいてみました。なんか変だぞ、と。

 

すると、自分の心の異常な働きに気付いたのです。相手の名前を呼ぼうとした瞬間に、私の心の中に何者かが現れて、そいつに私の心が向いている方向を一瞬でクルッと変られた、と。そして、私の心の方向を変えたそいつは、すぐに消え去ったのです。そのために名前を瞬間的に忘れてしまったのだ、と。

へたくそですが、心の中で起こったことを絵で表すとこんなイメージです。

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左:最初は、心が名前の方を向いていて、はっきり名前がわかっている状態。

中央:名前を口に出そうとした瞬間に、足元に何者かが現れ、私の心を掴んで回転させ、見ている方向を変えた。

右:私の心は名前を見失ってしまい、「誰だっけ?」と言った。

 

この変化は本当に一瞬で、「よく気づけたな」と思ったものです。魔法にかけられたか、あるいは呪いのようでした。完全に条件反射だったのです。そして、「とうとう見つけた、トラウマのしっぽを掴んだ、絶対に離してはいけない」 と思いました。

この頃の私は、摂食障害の症状もほとんどなくなり、瞑想もクセになっていて、そして過去のことを思い出して書き出そうとしていたころだと思います。小説を読んだり、ACに関する本を読んでACにありがちな考え方や感情の癖を学んで、自分や自分以外の人の考え方や感情のパターンについての情報をもっていて、そのうえ瞑想で自分の感情に目を向けられるようになっていたために気づけたのだと思います。書いてみると、回復って総力戦だなと、つくづく思わされます。


トラウマの影響に気付くというのは、こんな具合で非常に難しかったです。また、この影響に気付いたとしても、ほとんど条件反射になっているものを変えていくというのは、至難の業です。条件反射を変えるというのは、例えば、誰かが不意にあなたの顔の間近で拍手をしても、一切目を閉じないで驚きもしないようになる、ということです。難しそうじゃありませんか? 難しいんですよ。

 

子ども時代に植え付けられた感情や行動の悪い癖を見つけて取り除くのは、本当に手間がかかり、自分の日常の言動や思考に意識的になって、その働きが子ども時代のネガティブな経験やトラウマ体験の影響を受けたものでないかどうか、いつもいつも自覚的である必要がありました。ただし回復のサイクルができていると、問題には否が応でも気付くことが多かったです。そしてようやく問題を見つけても、それは問題解決の出発点に立ったというだけのことで、回復するためには、またものすごく手間がかかる。こういう感情の癖を変えるには、熱心にやっても3年とか4年とかかかりますし、他の感情的な混乱も絡まってくるので、一筋縄ではいきません。

正直なところ、「死んだ方が楽だな」とは、ずっと思っていました。なにしろ抱えている問題が多すぎて、しかもものすごくこんがらがっているから、どこから手をつけていいかわからない、そして、どれ一つとっても簡単に解決するものはない。苦しみだらけの人生を損得で考えたら死んだ方が得だろう、人生のリセットボタンを押したい、と考えるのですが、リセットボタンがないので辛抱して回復を続けるしかありませんでした。

 

根気よく続けて、ACとしての感情の混乱や問題が減っていることもたまに実感でき、これがモチベーションとなって回復と成長を続け、今に至ります。永遠に終わることがないように思えたACとしての感情の混乱はものすごく減って、気持ちは軽くなっています。たいへんだったけど、やり続けてよかったと思っています。

 

今回は、主にトラウマの悪影響を発見する難しさをご紹介しましたが、またそのうち、新しい反応・生き方を身に付ける難しさをテーマにしたいと思っています。