本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第11回 AC(アダルトチルドレン)は身近な人ほど傷つける

「虐待を受けた子どもの世話をすると、理不尽なほど世話する大人に迷惑を掛ける。これは、大人が本当に信頼できる人かどうか試しているからだ」

というようなことが、どの児童虐待の本にも載っています。

 

私の体験からするとですね、あれは別に試しているわけじゃないと思うんです。

 

「信頼できるか試している」というのは、「信頼」って感情をそもそも知らない子どもだった私としては、ちっとも腑に落ちません。虐待を扱った本に載っているような子どもたちも、きっと「信頼」という感情にはあまり縁がないと思います。だから、そもそも子どもがろくに知らないであろう感情に基づいて行動すると考えるのは、おかしいのです。

 

私以外の当事者の感想みたいなのを読んでも、第三者的に「試していたんだと思う」みたいなことが書いてあったりするのですが、だいたいそういうのを振り返って客観的に書ける人は児童虐待のことを多少知っていたりしますから、自分の言葉というよりは、児童虐待の本に載っていた説明を優先してしまうんだと思います。

実際に、当事者がはっきり意図して「信頼できるか、大人を試していた」と言っている感想は、見聞きしたことがありません。みんな自分が何やっているわからないままで反抗的だったり人を傷つける行動をしているのだと思います。自分が何をやっているのかわからないままそれをやってしまう理由は簡単で「子どもにとってはそれが当たり前に身についていること」だからです。

わたしはこれは、原因がいくつかの層に分かれて絡み合って生じているものだと考えています。

 

1 人に対する不信感。距離を近づけたくない。社会に批判的な態度が癖になってる。

2 心理的に近づかれることに不慣れであること。恐怖。

3 やわらかい心がわからない。相応しいコミュニケーション方法も持っていない。

4 距離が近い人ほど傷つけ合う、傷つけるものだという、学習した人間関係

 

1→4に行くほど、本人にも自覚しずらい感情になっていきます。なぜなら、一般的に広く言語化されていないことだからです。自分の体験であっても、独自に言葉にするって、すごく難しいんですよ。

さて、上から順に説明します。1と2は似てますが、違います。1は目に見える部分なので、本人も周囲の人も理由を説明したり理解できることです。2は感覚的、生理的な部分です。3のやわらかい心というのは、甘えるとか、親しみを覚えるという感情のことなのですが、これは恐怖や怒りと違ってソフトな感情です。怒りとか悲しみに比べると、変化が微妙でデリケートなのでわかりづらいんです。料理でも、濃い味付けになれていると、食材そのものの味を味わうことができない、なんにでも醤油をかけてしょっぱくしちゃう(あるいは、なんにでも七味をかけて辛くする)、とかあるじゃないですか。そういう感じで、怒りとかになれてるACにとっては、デリケートな感情って感じ取るのがすごく難しいんです。それと、相応しいコミュニケーション方法を持っていないというのは、そのままです。大事にされた時にどう振る舞えば良いのか、大事にされたことが少なければよくわかりません。

 

この3までは、被虐待児を世話するうえで理解しておかなければいけないこととして知られていると思います。

最後の4ですが、これが「子どもは大人を信頼できるかどうか試す」というふうに勘違いされている部分だと思います。

私の考えを言うと、大人を試しているんじゃなくて、「身近な人間は激しく傷つけあうのがマナー」として家庭で学んでいるので、これをやっているのです。「拳で語り合う」じゃないけど、戦闘民族みたいになっちゃうんですね。だって、一番身近であるはずの家族から傷つけられていたのですから、そうしたら「身近な人間ほど、傷つけるのが正しいコミュニケーションである」と、体験として血肉にすり込まれるんですよ。

わたしにもその衝動があって、本当に苦労しました。すげー好きな子の家に刺身包丁もってほがらかにあいさつに行こうと思いましたから、「びっくりどっきりさせちゃお~」くらいのノリで。自分が狂っているのがわかっていたので、むりやり相手との人間関係を断って衝動を叶えられないようにしましたけど、この衝動はものすごく強かったです。「ぜったいに面白い」って思い込みがすごかったです。かろうじて残っていた正気の心で対処できたからよかったものの、普通におまわりさんに捕まりますよね、これ。ここまで酷いことはなくとも、やっぱり相手を平然と傷つけることはあって、「身近で大事な人ほど傷つけようとする衝動が強く出る」という、根深い癖を自覚した時「俺、死んだ方がいいな」と思ったものです。まあ、基本的にそういう時期はほとんど一人きりでアパートに引きこもってましたけどね、人に迷惑掛けるのも、自分の人生をさらにややこしくするのも嫌だったから。

ともかく、相手を試しているんじゃなくて、「やたらに相手を傷つけるのは、近しい人間がするコミュニケーション」という刷り込みがあるということ。

昔の流行歌に「触るものみな、傷つけた」って反抗期の心を歌った歌詞がありますけど、そういうのじゃないですよ、ぜんぜん反抗してるつもりじゃないんです。普通に、そうやっちゃうんです。第5回でトラウマの影響に気付く難しさを書きましたけど、ボールが目の前に飛んできたら瞬きしちゃうのと同様の無意識レベルで染みついてて、やろうとしちゃうんです。

これとは別に、わざと相手を不快にすることもあると思うんですが、これも「相手を試している」わけじゃなくて、「薄味でものたりないから、醤油をかけて慣れた濃い味にしよう」みたいなことなんです。思いやりだけで関わられると、体験に慣れてなくて物足りないっていうか、うまく受け止められないから、慣れ親しんだ憎しみと怒りを織り交ぜて体験を受け止めやすくしよう、というわけです。これもほぼ無意識にやっちゃうものです。

被虐待児が、大人をわざわざ怒らすようなことをするっていうのは、こういうことなんだと思うのです。第2回で書いたように、そもそもの感情や人格の基盤が「怒りや憎しみ」にあるというのは、事あるごとにその感情に戻ろうとする作用が働くということですから。

 

 というわけで、被虐待児の行動の原理について、実体験を通じたまったく新しい所見を表明してみたわけですが、実は被虐待児の典型的な行動としてやたらベタベタなつくというのもあります。わたしはそういうタイプの子どもでなかったので、考察が及んでいない点は、ご容赦ください。