本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第14回 回復における理想と現実

たぶん、回復のための努力を始めて、多少なりとも自分の成長や変化を感じたことがある人はみんなこいうことを実感していると思います。

「ちょっとでも油断していると、まったく問題は片付かない」「もの凄い努力をして、ちょっと成長したと思って油断したら、すぐに元に戻ってしまった」

 

そもそも、結構長い期間(年単位)で、腹をくくって回復のために費やさないと、ちょっとした回復すら感じられないようです。「しぶしぶ」「とりあえず」というスタンスで取り組んでいる人からは、「何年も続けていても、ぜんぜん効果が感じられない」と、よく聞きます。

 

自助グループで回復を実感しているという話が聞ける人というのは、一定期間(一年以上)「全身全霊で回復することにしがみつく」という生活を続けていて、その後もコンスタントに回復に対して時間とエネルギーを注いでいる人たちです。

 

普通に考えれば、回復というのはつまりもう一回人生を生き直すようなことが求められているわけですから、ものすごくたいへんだと想像できそうなものですけど、なぜかそういうふうな理解のされ方をしていない気がします。

 

例えばインナーチャイルドを育てるとかいうことが言われますけど、実際の子育てというのは一生でも一、二を争う大仕事で成人するまで20年もかかるわけじゃないですか? それをするというのはつまり、混乱をかかえて自分の感情がわからないしPTSDを患った状態で大人としての日常を送りながら、傷心の子どもを育てなくちゃいけないわけです。困難だと思いませんか?

 

わたし自身かなり熱心に回復に取り組んで18年かかってやっと「ああ、大人になったんだな」と感じたところです。また、長らく感じていたのは、回復のプロセスというのは、麻酔なしで自分の腹をかっさばいて悪いところを切ったり縫ったり、あるいは移植手術をしたり、つらい思いをしながら(これはトラウマへの対処)、そのいっぽうで、自分の子供心に目を遣って育てていくというウルトラCをやってのけている、という認識でした。

 

ACの回復の本というのは、すごくおおざっぱにいうと「自分を理解して、受け入れてあげて、本当の姿を取り戻しましょう」みたいな、ファジーな表現がされています。

しかし実際に回復に取り組む生活がどういうものなのかというと、多少の差はあれど、取り組みはじめたばかりのころは、誰にとってもしんどい、ひどい期間となるはずです。

 

例えば、生きることへの猛烈な不安に駆られながら目ざめて、自分にとって思い出したくない出来事を吐き気と頭痛をもよおしながら(あるいは泣いたり叫んだりしたり、死んだ方がマシだとか死にたいという気分に駆られながら)気合いで書く、なんだかわからないけど祈ってみる、効果があるのかどうか実感の湧かないミーティングに毎日のように通って憂鬱な顔で暗い話をする人ばかりの中で自分もまた辛い暗い話しかできないからそれを話してくる(でもなぜか少し気が楽になる)、いっぽうで毎日の感情的な混乱は相変わらずでそれに耐えながら生活を続けなくちゃいけない。お先真っ暗な気持にずっぽし飲み込まれそうになりながらも、「このまま死ぬか、死に物狂いで回復するか」と背水の陣の気持で必死の抵抗を続ける、というような感じです。

 

私がこのブログで回復の原理について書いたのは、「なんだかわからないけど精一杯やらないとどうにもできない」という回復のプロセスについて「なんだかわからないけど」というところの、心理的な負担を減らすことにつながって欲しいし、回復できることを信じて欲しい」と思ってるからですが、「精一杯やらないとどうにもならない」という部分は、変わりません。

 

特に回復において「生き方を変える」という側面は自分の限界を押し上げることそのものですから、そのときの精一杯を振り絞らなければ、その先には進めません。筋トレみたいなものと考えると理解しやすいと思います。記録を伸ばすには、その時なりの全力を振り絞る必要があります。さぼると筋肉は落ちるけれど、きちんとトレーニングを続けると、ある日、これまでより重いものがあげられたり、長い時間動けたりするようになりますし、またあまり無理をするとケガをします。そういうところがよく似ています。

 

さて、じゃあその間お医者さんが何をしているのかというと、私たちがやっている決死のロッククライミングを、下から見て「こっちの方がルートが良いぞ」「そっちの方が手掛かりが良さそうだぞ」「ルートは右だ」とか言ってるわけです。それはそれで有用なアドバイスなんですけど(もちろんアドバイスが有用なのは医者が有能な人の場合に限りますし、あとは相性もあることなので、ぜんぜん見当違いなことをいう人だっているでしょう)、こっちが必死で岩にしがみついてるその恐怖感とか、安全地帯にいる医者にはほとんどありません。

 

いっぽうで当事者のこっちは、落ちたら死ぬと思って必死です。わたしはACの回復の本を読むと、いつもそのギャップを感じます。「簡単そうに言うなあ」と思うわけです。やる方は、大変なんです。まさしく「言うは易く行うは難し」です。

実際、ときどき力尽きて落っこちてしまう人もいます。

 

ACの回復に関する本で取り上げられているのを私は目にしたことはありませんが、現実には、自殺してしまう人はいます。自助グループに通って医者にもかかってその人なりに精一杯問題に取り組んでいてもいても、耐えきれなくなって自ら命を絶ってしまう人はいます。また、現実には、誰にも苦しみを話せず、そもそも自分がどうして苦しんでいるのかわからないまま、抱え込んで死んでしまう人というのも、けっこういるはずなのです。

 

本の中では回復の成功例や「こうすればいいのです」ということだけが取り上げられますが、ぜったいにそんなみんながみんなうまくいくはずがありません。著者のクライアントの中には自ら命を絶った人もいたことでしょうが、それでは著者にとって都合が悪いからでしょう、ぜったいに書いていません。この、「死人が出ているのに隠す」という姿勢は、私はACの問題を社会に過小評価させる要因になっていると思います。

 

児童虐待となると結構大きく社会問題として取り上げられますが、子供の頃に救われなかった被虐待児が、そのせいで大人になって苦しんでいても、社会的なサポートの重要性はずっと低く見積もられます。実際には、子どものときよりも回復は困難になっているのに、です。そのため本人も、自分だけでどうにかしようとしてしまいます。もちろん本人が主体的に取り組む必要はあります。でも、当然ながらサポートがあった方が回復は早いし、実際の所なんらかの社会的なサポートは欠かせないのです。

 

ACの問題にからんで、同時に何かの精神疾患(それも複数)を患っている人もたくさんいます。だから、ACからの回復だけにフォーカスを当てれば良いわけでもなかったりします。私も摂食障害の症状にまずフォーカスを当てて取り組む必要がありました。回復のプロセスとして過去のことを思い出すというのはとてもストレスが高いものですから、摂食障害の症状が強く出ている時には症状の悪化が予想されますので、まったくお勧めできません。そんな具合で、あれこれ兼ね合いも生じます。

 

そんなわけで、ACの回復というのは、程度の差はあるにせよ、ものすごく複雑で、ものすごくたいへんです。この「回復はものすごくたいへんだ」という実感は、自助グループでは共通認識です。それは、ほとんどの人がその人なりの死線を越え、必要に迫られて自助グループに通うようになっていることからも明らかです。

 

このブログでは回復について書いているわけですが、実のところ、回復を選択しないという生き方も、それはそれでありだと私は思っています。またそれ以前に他人の生き方に正否や優劣をつけるなんて私の手には負えません。ようするに、ものすごく面倒くさくてたいへんで責任も負えないことだから、軽々しく人に勧められないわけです。

 

それでも私個人は回復しないという生き方を選びませんし、回復を選択してよかったというか、私にはそれしか生き延びる選択肢はないと理解していますので、今もコンスタントに回復に労力を払っているわけです。今日もこれから自助グループに行ってきます。

 

そんなわけで、回復を願っている皆さま、回復の道は一筋縄でいかず険しいのですが、お互いぼちぼち頑張っていきましょう!