本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第17回 「イノセントな子ども時代」や「甘酸っぱい青春」はほとんどないけれども生きてます。

私にはイノセントな子ども時代というものはありません。

あるいは、純粋に[死にたがっていた」のがイノセントさと言えなくもありませんが、そんなふうにいってもあまり意味はないでしょう。「イノセント」には、「何に思い悩むこともない幸福な子ども時代」というニュアンスが込められていて、ともかく私にはそのようなものはないからです。

なにしろ、4歳8カ月から死にたいと思っていたわけですし、それ以前からもう「辛い」から、そう思うに至ったわけです。

幼少期だけじゃありません。小説や映画で、青春ものってあるじゃないですか?

友達とちょっとした冒険をして成長するという物語。さまざまなパターンで、あらゆるメディアで描かれるストーリーです。それも、私にはあまり該当しません。

ACの場合、たいがい、そう都合よく順を追って人生の困難に挑むことはできません。人生始まった瞬間にいきなり大冒険です。どう考えても能力を超えた状況を生き延びなくちゃいけないのです。

ロールプレイングゲームで例えると、ゲームが始まった瞬間にラスボスと対決って状況なのです。リセットボタンはありません、中断できません。いわばクソゲーですね、そんなの。でも、それが私の育った環境です。泣いても叫いても叫んでも、だれも助けてくれません。

私は、「今の年齢で家族を殺したら、保護観察になって、前科も付かなくて少年院も入らなくて済むかな」とか「どうすれば苦しまないで死ねるか」とか調べてた子どもで、初恋より前に、家族みんな死ねばいいのにと小学生の頃に願っていた人間です。「皆死んで、ただただ金さえあれば、もっと楽しく元気に一人で生きていけるのに」と考えていました。

(こういう気持ちだけをピックアップするとすごく無慈悲な子みたいですが、私は陰口とかいわないし、虫も安易に殺さないような人間です。クラスでのいじめに加担したりもしませんでした。ぐれたりしたこともありません。つまり、家族に精神的に追い詰められいて、危害を加えられていたので、自己防衛本能で「死ねばいいのに」と思っていたのです。自分に害を与えない人に対して強い憎しみを抱く、ということはありませんでした)

キラキラした子ども時代なんて、ありません。青春時代だって、トラウマとの葛藤でほとんどが費やされました。

どれだけ回復しても、過去が変わるわけじゃありません。相変わらずです。基本的に、死にたかった子ども時代しかありません。それが私の人生です。

回復を始めたばかりのころ、自分の子ども時代が自動的にいろいろ思い出されてとても辛かったものです。子どもを気遣う親の姿を見ると、自分がいかに蔑ろにされていたのかを思って涙が出ました。小さい子どもを見ると、「この子くらいのときに、私はもう人生に絶望して死にたがっていたのか」と、本当に我が身がかわいそうでした。くよくよしないなんて無理です。

もしかして、「それは自己憐憫でよくない」と思う方もいるかもしれませんが、もしそれが私以外の子どもであっても、4歳で死にたいと思ってしまうような家庭で育つ子どもに私はやはり「ものすごくかわいそうだ」と感じます。別に自分が世界で一番かわいそうだと思っているわけじゃありません。不幸な子どもは沢山いて、そのうちの一人として、やはりかわいそうだ、と思うのです。私にはこれは、ごくまっとうな感覚に思えます。

 

さて、子ども時代に手に入らなかったものを私がほとんど嘆かなくなったのは、結局、別の方法でそれを獲得してからです。

それには、子供の頃に手にいれられなかったさまざまな情操の成長を、子供の頃とは違った方法で獲得していく必要がありましたし、同時に、トラウマを片付ける必要がありました。

私は、わたしのような順序で精神的な成長をしてきた人間というのは、ぜんぜん社会で理解される文脈を獲得していないと感じています。近年、同性愛の人とか社会的な理解を獲得してきつつありますが、それ以上に、社会的に居場所がないと感じています。別に悪いことをしたわけじゃないのですが、まるで自分が悪いことをしたかのように、自分の過去に負い目を感じているのです。それは、トラウマがどうこうというよりむしろ、「人と違っている」ことへの引け目であったり、虐待を受けて育った子どもが大人になった状況への社会的な無関心・無理解から生じているように思います。

例えばACのことを語り、どう考えたって他の大多数よりは問題意識の高い児童虐待の専門家ですら、被虐待児の「子ども時代」しか見ていません。一人の人間の人生全体を通じた回復や成長の過程という視野を持っていません。でも、実際当人が向き合うのは、人生全体を通して自分の被虐待の経験と折り合いを付けて生きていくという事なのです。「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、専門家やっているのはたぶんそういうことです。無駄だ、ということではないのですが、なにがしか成長の効果が見込めるのはかなり限定的にならざるを得ません。あるいはそれが「専門領域」ということなのですから、「物足りない」なんていってもしょうがないのでしょう。またここが、わたし自身と専門家と言われる人たちとの問題意識の違いを感じる部分でもあると思います。彼らにとっては「子ども時代」だけに強い関心を持っていて、その後どうなっても「仕方がない」ことなのです。当人にとっては、そうじゃありません。仕方がない、とはいきません。なにしろ、人生は死ぬまで続いてしまうのですから。

児童虐待の影響やその回復の必要性や可能性への理解や研究がもっと幅広い年代に対して行われて欲しいし、それだけのことをやる意義はある大きな問題なんじゃないかと、私は思っているのです。たぶん世界中で毎年何万だか十何万だか、統計的なものはよくわからないけれども、もの凄い数の子どもが虐待を受けて育っていることは事実で、そのうち専門的な治療を受けられる子どもというのはほんの一握りで、それって生活習慣病に罹患しているのに全く治療を受けないで生涯を過ごすのと同じくらいのリスクを負っていると思うからです。欝の発生率や自殺率は被虐待児なんて明らかに高いわけですから。