本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第19回 虐待に対する社会的な無関心を嘆いても問題は解決しないので社会にあまり期待せずお互い頑張りましょう!

第18回の記事を書いていて気付いたのですが、自分がACであるという自覚、おかしな家庭で育っているという事実を認識することが、回復以前に必要です。当たり前なんですけど。

私はたまたま中学に上がる頃、図書館で読んだ心理学の本からACの知識を得ました。もう四半世紀も前です。わたしの場合はかなり早いケースで、ACであると自覚するのはたいていもっと大人になってからです。あるいは全然気付かないままに歳をとって、子どもをまたACに育ててしまっている人だって多くいます。

昨年、9歳の子どもが、親から暴力を振るわれていることを警察に訴えて親が捕まったというニュースを聞いて、すごいことだと思いました。この子どもは、自分のされていることが社会的にどういう事であるのか、何かが切っ掛けで知ったわけです。最近はニュースで虐待のことが定期的に取り上げられますから、それで知ったのかもしれません。知は力なり、です。

こんなところで提言しても仕方がないかも知れませんけども、ほんとは保健体育の授業ででも教えたら良いのです。暴力は、親からであれ誰からであれ、どんな理由を付けようが犯罪だ、と。あるいは、毎晩喧嘩したり飲んだくれている親は親の役割を果たしていないとか、アルコール依存症で病気かもしれないとか、そういうことを教えたら良いのです。そもそもそんなところで育つ子どもは保護されることがベストですが、十分な体制は整っていません。だったら、せめて知識を与えるべきです。また、自分が親になった時、自分のやっていることが虐待で犯罪だと自覚する可能性だって増すでしょうし、抑止力としても働くはずです。また、回復につながる人も増えるはずです。

ただ残念ながら今の日本は、虐待を受ける子どもにとても冷たくて、例えこうした家庭の問題に気付いて逃げたくても、受け容れてくれる場所はほとんどありません。

 「親は子どもをだいじにするもの」という、思い込みって怖いですね。この思い込みに反する例がたくさんあって、亡くなってしまう子どもだっているのに、そして亡くならないまでも苦しめられている子どもは、亡くなる子どものたぶん何十倍か、百倍かいるに、この前提で社会は動いています。不都合な事実は見たくないから見ないって事なのでしょうか?

ヒヤリハット」という言葉をご存じでしょうか? 運転免許の講習とかで教わりますよね。ハインリッヒの法則、とか言うやつです。1件の重大事故の裏には、30件の軽微な事故があり、300件のヒヤリハットがある、と。

子どもの虐待も、ニュースになるものの裏には、ニュースにならない数百件、あるいはそれ以上の虐待があるのです。死なない程度にさまざまな形で虐待されている子どもが、もの凄い人数いるわけです。

子どもが虐待で亡くなると、児童相談所がやり玉に挙げられますが、ようするに児童相談所じゃあ手に負えないのです。でも他に代わる組織もないのです。その状態がずっと続いていますが、拡充される様子はありません。

社会で大人が大人に手を挙げれば暴行傷害で犯罪ですが、親が子どもに手を挙げても、それを暴行障害で犯罪だと考える人はなぜか少ないのです。子どもの方が大人より心身共に傷つきやすく、逃げ場がないというのに。

あるいは、以前になりますが、お笑い芸人の方が、ホームレスの小学生だったとかいうことで、いっとき話題になりました。これはどうして児童福祉の観点から問題提起されなかったのでしょう? ただ「かわいそう」とか、物珍しさなのか、話題になって、本も売れたようですが、彼はどうして社会のセーフティーネットに救われなかったのでしょう? 

最近の例を挙げると、ヤフーとかで、親から虐待を受けて育ち少年院に入っていたアイドルという方が話題になって、興味を持ってインタビュー動画を見たのですが、母子家庭で育ったこの方は、まだ小さい頃に1週間母親が家を不在にしたために食べ物がなくなり空腹で死にかけた、と話していました。そしてその母親とは今同居しているそうです。思うのですが、どうしてこの母親は捕まらないのでしょう? どう考えても行いは犯罪的です。殺人未遂でしょう。こういうところでも、奇妙な「事なかれ主義」がまかり通っているようで本当に恐ろしいです。問題の軽重や良し悪しに関係なく、ともかく物事に波風立てる人への冷淡な扱いというのは日本のどんな組織でも見られるんじゃないでしょうか?

わたし自身の体験でも、大人になってから振り返って、どうして私の親や姉は捕まらないのだろうか? 捕まるのが妥当ではないか、とかなり強く思ったものです。わたしが親や姉にされたことを一般社会で誰かが他人に対して行ったら、まちがいなく逮捕されるなり会社をクビになるなりの社会的な制裁を受けます。

結局わたしの場合、確固たる証拠を残していなかったため、起訴は難しいと考えましたが。

ともあれ、日本社会では、児童虐待をしても大人はほとんど捕まらないし(捕まるようなケースは子どもが亡くなるほど酷いとき)、また「親は子どもを愛するもの」という幻想がどうやら今もあんがい広く信じられているようです。だから親権を取り上げるということをほとんどしない。虐待親の強弁が通ってしまう。あるいはこの建前をとっぱらって、子どもを愛せない親が現実には結構あるということを認めると、社会的な負担が増えるわけで、それが嫌なのかもしれません。いずれにせよ残念ながら、子どもをみんなでだいじにするという意識のない社会なのだろうと思います。

私は子供の頃、何年間も、隣近所に聞こえるくらい大声で、ほぼ毎晩泣き叫んでいましたが、近所の人が心配して見に来る、なんていうことは一度たりともありませんでした。残念ながら、ほとんど社会には期待できません。基本的に救いはなく、救われたらとてもラッキー、宝くじに当たったくらいに思っていれば間違いないですね。残念ながらそういう国なんです、現在の日本は。

だから私はこうして、死なない程度の虐待を受けて、救われないまま大人になった人たちに向けたブログを書いているのです。社会は、私たちの存在をさほど認識していませんからね。

待っていてもだれも気に掛けちゃくれませんから、私はささやかながら勝手に声を挙げているのです、「こういう人間も、いるんだぜ」って。