本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第20回 回復したくない気持ち

回復するのが億劫な気持ちというのはすごく強いです。

 

変わりたくない、という気持ちもすごく強く表れます。

 

私は毎朝、自助グループの本を数ページ読んでからその日を始めることを習慣にしていますが、身につくまでものすごく時間がかかりました。

 

毎朝、忘れるのです。枕元に置いて朝起き抜けに目に入るところに置いておいても、読むのを忘れます。一年か一年半か、もっとかもしれませんが、一般的にものごとが習慣になるには30日とか、あるいは運動習慣などの負担の大きな物になると3カ月近くかかるらしいですが、その数倍はかかっています。

 

そして、読んでも忘れます。ものすごく忘れます。

 

私はストレスで結構な健忘の症状が出ていたこともあったため、これは特に私だけのことかと思っていたら、そうではないみたいで、かなり熱心にミーティングに参加していた方からも同様の話を聞いたことがあります。

 

ちなみに、熱心にミーティングに通っているメンバーでも、そもそも文献を読む人は少数派で、その内容までおおむね把握している人(こんなことが書いてあった、とミーティングや、運営会議の場で話す人)となると、ごくごく小数です。

 

ある程度長くミーティングに通っていると、メンバーは何かの折に書籍を持つようになるもので、けっこう持っている人はいます。でも、ぜんぜん頭に入っていません。あるいは、必要な時に思い出せないのです。それは、読書家の人でも、読書家でない人でも、です。もっというと、毎回ミーティング冒頭に読まれるハンドブックの内容を意識している人も、さほどいません。これは本当に不思議なほどです。

 

こんなことを書いたり気にしているということはつまり、私自身、書籍に目を通していて、何事かの選択・決定の場面では、書籍の内容と照らして指針を検討するよう心がけているって事ですが、しかし読んでも内容はすぐに忘れてしまうので、それに抗うように繰り返し読んできました。

 

私は、朝に自助グループの本を読むようにして十年ほど経つと思いますが、いまでも「読むことを忘れてしまう」のを前提に、絶対に目に付くところに本を置くようにしています。それでも忙しい朝は、忘れます。「なんかやってないことあったなぁ」と感じて「そういえば」と、やっと思い出す、ということが今でもあるのです。

 

実際の所、これは回復の意欲と関係なく、ほとんど本能的に忘れるみたいです。

 

こうしたことは、私が思うに、「回復したくない気持ち」がすごく強く働いていることが主な要因なのだと思います。

 

ACは自尊心が低く依存的な性格であることも多く、なにがしかの依存症を患っている人も少なくありません。私も摂食障害だったことがありますし。

そして、依存症一般の症状として「否認」があります。否認というのは、例えばアルコールを浴びるように飲んでいる人が「自分はアル中じゃない、その気になればいつでも酒なんか止められる」と言い張ったり、ガリガリに痩せた人が「自分はまだひどく太っていて醜い」と信じ込んでいるなどの、現状を認められない言動や認識のことを指します。

これは依存症が人格に食い込む病であり、さまざまな認知の歪みが症状として生じるためで、まさに依存症が病気であるとされる由縁の部分なのですが、こういう認知の歪みはACの考え方とよく似ています。それは当たり前っちゃあ当たり前です。

ACのこの「認知の歪み」は、アルコール依存症者とかの依存症者と共に生活するなかで、依存症の特徴的な性格傾向を学習してしまったことが要因だったりするからです。そういう場合は、病気が伝染したとか、環境遺伝とも言えそうです。

 

そして、いったんできあがった人格というのは、病的であろうがなかろうが、生き延びようとします。人格というと大仰なので、「習慣」と言ってみましょう。とはいえ、習慣というのは人格の一部で別物じゃありません。でも習慣と人格は一般的には別物扱いされるので、そうではないということをまず説明します。

 

習慣には小さなものから大きなものまであって、わかりやすいように大きな習慣を例に挙げると、毎日八時間トレーニングするのが習慣の人はプロのアスリートだったりして、それは習慣だけれども仕事であって同時に生き方だったりもしますが、人格の体現でもあるわけです。というわけで、大なり小なりはあれど、習慣は人格の一部なのです。

 

わざわざこんな説明を加えたのは、私の感覚的にACとしての習慣は「人格の一部」と感じているためです。なにしろACとしての習慣は、良くも悪くも環境に適応して生き延びるために精一杯がんばって身に付けたものですから、ものすごく根深くて、たとえそれが役立たなくなっていても、変わりづらく、習慣、と表現するのに相応しくないと感じるし、かといって「人格」というと、全人格的であるような印象が強くなってしまいます。ようは、人格の一部であるって言いたいのです。ただし人格の一部といっても、ものによってはトラウマ(心的外傷)として人格全体に広範に影響を及ぼしていたりもします。

 

分かりづらくなってしまったので、少し別の角度から説明をします。

 

回復の第一歩として「自分の問題を認める」ということが言われますが、まずその一歩からとても難しいのは、否認の病気である依存症者の影響を受けて育ったからであったり、また同時に、生育環境以外の社会では問題の原因となる習慣が幼少期を生き延びるため必死で身に付けたいわば「必須の生存スキル」であって、安易に手離すことはできないという理屈でどうこうできないくらい深く生存本能に結びついた意志が影響していたり、あるいは、よその世界を知らず、自分がこれまでしてきた生き方以外の生き方を知らない(比較対象がないので問題が見えない)とか、そういうことがぜんぶ関係して「問題を認める」ことの困難さが生じていたりするわけです。

 

こんなふうに、回復に向き合おうとするときに立ちはだかる壁が、問題一つでできているということはほとんど無くて、いくつもの要因がしっかりと絡まっていて、強固に作られた生き方や考え方の習慣として人格に深く根付いているのです。トラウマ体験だったり、家庭内で身に付けた習慣なりは、単独でも強い影響力を人に対して持っているのですが、表面的な影響の出方として重なる部分も多く、そういった場合には幾重にも絡まって単独よりもなお強固な壁になって立ちはだかって、自分が変わることを困難にするのです。

人間の人格がそもそも、様々な経験が絡まってできているもので、ACの人格ももちろんそのようにできあがっているわけです。だから、「交通事故に遭った。だから運転が怖い」みたいな単独のトラウマ体験と違って、問題と原因が一対一になっておらず、ひどく複雑です。

 

まだいまいち分かりづらいので、例え話をします。

 

軟弱な地盤にいい加減な設計と手抜き工事で建てられた家を想像してみてください。この家は立て付けが悪く、ドアがゆがんでいてきちんと閉められないのですが、これを解決するにはどうすれば良いでしょう?

ドアを取り替えても、家全体がゆがんでいるのですぐにまたドアはゆがんで閉められなくなってしまいます。「それでは」と、ゆがんでいる家の柱を補強しても、地盤が緩いのでやはり家はゆがんでしまい、ドアはまた閉められなくなります。

「ドアを閉められない」という一つの問題を生じさせているのは、地盤の緩さと、作りの悪い家の歪みの両方で、どっちかだけを手当てしても問題は解決しません。しかし、どこかから手当てしなければ、壁のヒビが増えたり、床が傾いたり、雨漏りが生じたり、やがて天井裏が腐ったりと、問題はどんどん大きくなって、ちょっとした地震で潰れるようなことになってしまうかもしれません。

 

さらに、「柱が細くて十分な強度がない」とか、「屋根の防水がしっかりされていないから雨漏りしている」というときだって、いきなり柱を切って太い柱を入れ直したり、屋根をぜんぶはがして防水工事をするっていうことはできませんよね。不十分な柱でも、なんの準備もなし取り外したら家が潰れちゃうかもしれないし、屋根の工事だって、無計画にやってそのあいだに雨が降ってきたらどうするんだって話です。しかもその家に自分が住んでるとして、突然工事されたら困っちゃうわけです。生活が出来なくなってしまう。たとえそれがもう使っていない部屋の工事だったとしても、影響は家全体に生じるから、「この部屋だけ潰していいよ」ということは急にはできない。

 

ACの抱える問題というのはこういう感じで、回復に抵抗する心理っていうのは、こういうことの表れで、つまり自己防衛本能的なものだと思います。問題があるにせよ、いきなりそれを取り除こうとしても難しいのは、人格の構成要素として不十分なりにも役割を担ってきていて、もう使わないほうがいい習慣であったとしても、いきなりそれだけをどうこうすることはできないからです。

人の人格というのは、いろいろな要素が陳列棚にひとつひとつ手に取れるように置かれているわけではなく、建築物みたいにいろいろな要素が立体的に組み合わさって、その人なりにバランスを取りながら成立しているものなのです。(そういえば、人の体だってそうにできてますよね)

 

表面に出ている問題が、問題の全てとは限らないし、一つの要因がその問題を作っているわけでもないのです。いっぽうで、表面上の問題に対処する必要もあるし、根本的な原因を見つけ出して手を施す必要もあるわけです。

 

そんなわけで、回復するってことは基本的に良いことだとはいえ、とても面倒なのです。

 

家の工事と回復の違う点は、家を壊しても自分自身は痛くありませんが、回復のために自分の人格を変えるのは痛みが伴うということです。

 

例えば、病気であっても、ガンやイボというのは、体の細胞組織の一部になっていますから、それを力尽くで取り除こうとすると痛いですよね。

 

精神的な回復も同様で、問題を取り除こうとすると、前述したいろいろな要因に加えて、痛みを避けようとしてしまうって気持ちも働くのです。根深い習慣をえぐり出そうとすれば、それだけ痛みも強くなります。そしてそれは、ものすごく強い力で行動を左右します。

麻酔なしで手術すれば、誰だって手術台で痛みにのたうち回るでしょう。けれど思い出して再体験の痛みを感じるプロセスでは麻酔をかけるわけにもいきません。なにかで心を麻痺させていたら、治癒も生じないですから。だから変わりたくないって気持ちは生じて当然でなのです。それ自体を否定しても意味はありません。

 

回復には喜びも感じられるものですが、回復のための努力については、正直しんどいことしかありません。楽しいとか、嬉しいとか、そういうことを私は全く感じたことがありません。自分の感情の問題を見つけると、忘れてしまう前にノートに書き留めて、頭がキリキリ痛むのを感じつつ、深く掘り下げて思い出し、考察をする、ということを十年以上やり続けてきましたが、いまだって、自分の問題を認めるのは容易じゃないし、しんどいし、面倒です。楽だったことは一回もありません。

 

かなり熱心に回復・成長に取り組んでいると自任していますが、「よし、がんばるぞ」なんて思いで回復に取り組むことはまずありません。実際の所、なかなかこういう意欲が出るまで待っていることはないし、いったいいつ意欲が出るのかなんてわかりません。なんなら、出ないまま一生終わってしまうかもしれません。

 

私の場合「忘れる」というのが強く出ましたが、ほかにも「回復を妨げる自分の行動」というのは、人によっていろいろな形で出てくると思います。なんやかや理由を付けて、元の生き方に留まろうと、変わるまいとしてしまうのです。

 

「やる気スイッチ」とかいう言葉がありますが、そんな都合の良いものはたいていの人に付いていないのではないでしょうか。私の場合、「恐怖」や「危機感」に突き動かされてきたとはっきり自覚しています。前向きな努力じゃないです。過去の生き方に戻りたくない一心で頑張るのです。「絶対絶対絶対絶対に、前みたいな生き方をしたくない。そんなことしたら、発狂するか、死ぬ」とか思っているので、回復に取り組むわけです。大げさな表現じゃなくて、ほんとです。問題を見つけたらすぐに取り除こうとすることは、私のなかで「虫歯を見つけたら悪化する前に早く治療する」って感覚と同じものです。放っておいても勝手に治らないし、どうせ治療をするなら早い方がいいのです。

 

回復したくないという気持ちに反して回復するには、どうしても毎日毎日、回復したくない気持ちに付き合うことになります。回復したくない気持ちって、いつになってもなくなりません。変わりたくないって気持ちを持ちつつも、勇気を出して変わっていく方を選択する、ということの繰り返しです。

 

ありふれた答えだし、すでに前に書いていることもありますが、長丁場の回復というプロセスで効果に取り組むには習慣化することが大事です。

 

回復や成長を習慣化することで、このややこしく手間と時間がかかる回復というプロセスをやり続けるようになるわけです。ちなみに、ACの性格特徴に、習慣的行動に固執する、というのがありますが、私はその特性を回復のための行動に向けるように意識してきました。

 

気持ちの上で「いくらやっても変わらない」とか「もう手遅れだ」とか思うことはしょっちゅうありましたが、絶対にそんなことはないんです。ただ、そういう気持ちの声に騙されそうにはなります。自分のやることなすこと、すべて駄目になるっていうような強い暗示を掛けられて育ったわけですから、そういう心の声は強いです。

 

私の場合、理屈っぽいので、やることやれば回復できることを原理的に理解していることが支えになって、この声に負けずに回復への努力を続けられています。回復への信念、とかじゃありません。支えは主に、科学的な知識です。ですから、簡単・安全・確実に回復できる科学的な方法が発見されたら、私は今の七面倒なやり方をさっさと捨ててそっちを支持します。

 

回復は、外国語の勉強や、筋トレ、生活習慣病の治療に似ていると以前の記事で書きましたが、意欲とは関係なく、とにかく習慣的に「回復することをやる」ことで進むものです。意欲があればもちろんもっといいわけですが、意欲はなくともやれば回復する、ということは、回復したい気持ち100%ではなくとも、ミーティングに参加したり、瞑想や、日々気付いた感情の問題などをノートに付けること、とか、ストレス発散のために何かすること、そういうことをやるようにするのです。

 

やる気がなくともやれば回復するというのは、回復が、本質的に個人の特性や資質とは関係のない、原理的なものだという証しです。人間が回復・成長する、心身の仕組みに則っているのです。

 

モチベーションに左右されず根気よく続けて、回復にしがみついて食らいついて離さないようにやる必要があります。

 

そんなわけで、回復に取り組んでいる皆さま、「変わりたくない」とか「もうだめだ」という気持ちに引っぱられて自分を見限ったりすることのないよう、回復への努力を習慣化して根気よく成長・回復に取り組んで生きましょう!