本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第21回 ACと依存症と欠陥住宅

ACの問題って複雑でどうやったらわかりやすく伝えられるんだろうと結構長く思っていたのですが、前回の記事を書いている時に「欠陥住宅」の例えがうまくはまることに気付きました。

正直、ACを欠陥住宅に例えるってのは、わたしにとってもそうですが、また私以外のACの人にとってもあまりいい気のするものではないでしょう。でも例えとしてすごく丁度良いので、使います。もう少しこの例えでもって、ACの抱えるありがちな問題を表していきます。なにしろ、すごく理解しやすいと思うからです。
ACの問題は心の中で起こることが大半なので、言葉で表現するにしてもどうしても個人の感覚的な物になってしまってイメージするのが難しいし、個人の感覚じゃないもので伝えようとすると、脳生理学を踏まえた難しそうな話になってしまっていたのです。

緩い地盤の土地にいい加減な設計といい加減な工事で建てた欠陥住宅、だと、問題がイメージしやすいじゃないですか? 具体的に目に見えたり、数値で計れたりしますからね。傾きなり、歪みなり、雨漏りだったり、ひび割れだったり、漏電だったりね。

 さて、ACの問題としてよく挙げられることに依存症があります。依存症というのは明らかに精神のバランスを欠いていて、すごく偏った状態です。摂食障害やギャンブル、仕事、恋愛、なんでもいいですが、依存症になりやすいのが、ACです。

どうしてかというと、第1回の記事で書いとおり、アダルトチルドレンというのは「情緒的にすごく偏った環境で子ども時代を過ごした人」ですから、この病気と親和性が高いのです。

また、依存症者というのはいくつもの依存症を渡り歩いたり、重複して抱えていたりします。
それは、欠陥住宅でいえば、全体がゆがんでいる中で、そのときどきで負担が掛かっている場所の近くから不具合が出てくる、ということと比べられます。

前回の記事では、欠陥住宅の扉が閉じられなくなった状態を例に挙げました。扉を閉められるようにするには、ゆがんだ扉を交換するだけでは駄目で、柱や梁の補強(それも一本だけではなくて、何本も必要だったりする)、さらには地盤改良が必要かもしれません。
また、扉一つだけがゆがんで閉められなくなっている、というはずはありません。全体がゆがんでいる中で生じている問題だからです。他の扉も開閉しづらくなっているはずだし、壁にはヒビが入っているでしょう。床を歩くとギシギシ音が鳴るかもしれません。小さな地震でも大きく揺れるし、どこかから雨漏りしているかもしれません。浴室には湿気がこもってカビが生えやすかったりもします。そんなふうに、あちこち問題が生じるのです。扉を一個交換しているうちに、他の扉の歪みも大きくなって開け閉めできなくなってしまったり、そもそも建て付けがゆがんでいるので、問題の扉を外すことも困難でしょう。
こんなふうに、一つ扉を交換しようとしても、他の所に歪みが生じているため解決に至らないわけです。

依存症者が複数の依存症を渡り歩いたり、複数の依存症を抱えるというのも、そういうのと同様です。一つ依存症が片付いたと思っても次の依存症が出てしまうのは、心のひずみという原因が片付いていないからです。これはたとえば、幼少期のトラウマや、コミュニケーション能力の不足、感情の鈍麻、不健康な生活習慣などが複合して生じているのかもしれません。だから、表面上に表れている症状への対症療法を考えただけでは不十分だし、だいたいが対症療法でなんとかしようとしても失敗に終わります。

じゃあどうすれば良いのかということになります。
ゆがんだ家に生じた問題を片付けるには、こっちの柱に仮の補強を入れて支えている間に、そこの梁を太いものに取り替える、工事をするために周りの家財を他の場所へ移動する、とかいった、建物全体のバランスや作業性を考えた段取りが必要です。あるいは、ばらして使える部材だけを使って家を建て直す、といった大がかりな作業が必要かもしれません。これはケースバイケースだし、人にもよりけりで、どんな選択にせよ判断はとても難しいです。

時間も手間も掛けたくないという人は、問題はあってもぎりぎり家が潰れない程度にだけ補修するって手もあるかもしれません。しかしそもそも地盤がゆるかったら補強だけではどうにもできませんから、潰れない家にするには、選り好みとは関係なく、建て直す必要があるかもしれません。ちなみに私の場合は完全に後者でした。

では、実例としてわたし自身が摂食障害にどう対処したのかというと、まず要因を自覚しました。子供の頃からストレスにさらされて生きていて、我慢の限界を超えて鬱状態にあったときに、寮生活のストレスが加わって過食が始まったので、ストレス発散の方法を何か持つ必要があると思いました。それが身につくまで過食はでてしまうのという判断から、ストレスにさらされる機会を減らしました。大学生だったのですが、休学したし、単位数なんて気にせず、興味のある講義だけを取ったし、1人暮らしも始めました。バイトもほとんどしないようにしてました。ただし、エネルギーがない中で動かなくてはいけなかったので、行動に移すにはけっこう期間も掛かっています。そして、ストレス発散と健康維持のため、毎日運動をしました(これはもともとの趣味でもありました)。感情を自覚するために、日記に限らず何かにつけて気付いたことを書き付けていましたし、食事も、過食衝動時のむちゃ食い以外の通常の食事は、ほとんど決まりきったものを決まりきった量だけ食べていて、自分の食欲は当てにせず(空腹、満腹を知覚する機能が壊れていると自認していた)、何を食べようかなんて悩まないようにしていました。それ以外にも、音楽を聴いてみたり、瞑想をしたり、あれこれ試して、自分なりに、ストレス発散の方法を、むちゃ食い以外に変える、という目的に沿った行動をしていて、それがだんだんと功を奏して過食衝動は薄れていきました。

摂食障害がだいぶ沈静化してから、子ども時代のことを思いだして書くというかなりストレスの高い作業に取り組んだのですが、これは事前に過食の問題を片付けていなければきっと過食も悪化したでしょうから、結果的にですが、段取りのいい順で対処できたのじゃないかと思っています。この例ではうまいこといったっぽいのを挙げていますが、私の場合、実際のところなかなかこの順番はコントロールできないので、目の前にある問題に加えて、知識としてACにありがちな問題だと理解していることまで含めて、ぜんぶまるごといっぺんにして、とにかくむちゃくちゃ精一杯取り組む、ということを続けてきたので(これって、いわゆる「全てか、無か」ってAC的な行動ですね)、すごくエネルギーロスが多かったと思います。子ども時代のことを書き出した時は無理しすぎて健忘になってますしね。あと、ヘタに順序をコントロールしようとするよりは、そのとき目の前に表れた問題にだけできるだけのことをやっていた方が成長は早いんじゃないかというのが、実感です。人間には本来的に成長・回復していく順序というのがあって、それに逆らったり、順番を飛ばしたりしようとしても上手くいかないんだと思います。まあそういうことが分かってからも、なかなか出来なかったんですけどね。

ところで、精神科医など医療従事者がどう治療に向き合うべきかというについて私見を述べますと、たとえば、「この薬で症状を緩和している間に、こっちの問題に対処して・・・」というふうに、患者の話しをよく聞いて、状況をよく確認し、専門的な知識と技術と道具(薬とか)で、プロとしての責任を持った判断を下し、対処することが求められているわけです。私自身はほとんど医者にかかったことがないので、こういう判断を実際に医者がしているのかどうかはわかりませんが、本来、精神科医が求められているのはこういう難しい判断であることは確かです。