本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第25回 人格について

ACからの回復とは関係ないと思われるかもしれませんが、人格というものについて私なりの考えをお伝えします。

ACの回復に関する本で「そもそも、人格とはどんなものか」ということが扱われることはまずありません。実際の所はこのよくわかっていないものが、「当然みんな知っているもの」としてなんの説明もなく言葉として使われているわけです。けれども、ACとして回復させるのは自分の「人格」ということですから、一体人格がどんなものなのか、回復について説明する上である程度の共通認識を持っていたほうがいいことは間違いありません。

ここでは、人格についての哲学的な議論はさておいて、私が経験上回復に役立ててきた理解の仕方でもって「人格」の定義をしておきます。

人格の定義=「記憶と経験のネットワークそのもの」

さっそく、この例証を挙げます。脳に腫瘍ができて脳の一部が圧迫されたことで性格が変わってしまった、あるいは腫瘍ができたために脳の一部を手術で取り除いたら性格が変わってしまった、事故で脳を損傷したら性格が変わってしまった、というような例をテレビや本で見聞きしたことがある方もいると思います(フィネアス・ゲイジという人の例が有名です)。これは脳の神経回路が物理的に変化させられたことによって人格が変化した例と考えられます。しかし、このように脳の一部が欠損しても、人格そのものがなくなったりはしません。変化したものの、全体としてはやはり一つの人格になっているのです。それは人格が「ネットワーク」だから、ということで説明が付きます。脳の欠損が、全体のネットワークが保てなくなるほど重大なものではなかったために、生き延びられたわけですし、人格も、変化したものの全体が失われはしなかったのです。そして、人格を失うような脳の欠損の例としては、かつて行われていた「ロボトミー手術」が挙げられます。前頭葉を切除してしまう手術で、これを受けた人は人生に対する興味関心が失われ、生きているだけの存在になり、個性というものがなくなったそうです。

というわけで、人格を構成するネットワークの一部が欠けても人格が変化することはあれなくなりはしないが、大半が破壊されるようなことになると、失われてしまうということです。

なお、脳の働きというのは神経細胞同士の情報伝達、つまり神経のネットワークのことですから、「人格とは記憶と経験のネットワークそのもの」という定義は、脳の物理的な仕組みとも合致しています。

 

では「記憶と経験のネットワーク」が一つの人格に収束させられているのは、どうしてなのでしょうか?

あまり疑問に思う方はいないでしょうが、「記憶と経験のネットワークそのもの」が人格の定義ということからだけでは、「一人の人間に一つの人格」という、ごく一般的な考え方は導き出せませんから、念のためにそうなる理由を検討しておきます。

ところで、ネットワークというのは、インターネットがわかりやすい例になると思いますが、そもそも「一つ、二つ」というふうに数えるのにはあまり向きません。
インターネットって、一つと言えば一つですが、プロバイダで区切れば世界中に何百だか何千だかあることになります。便宜上の区切り方で幾つにでもなるし、そのような区切り方でしか分けられない、というものです。ただ、この便宜的な区切りというのを実際的に人に当てはめると「一人の人間は一つの人格を持つ」という常識的な考え方を導き出せます。

つまりこれは、たいていの人は外見上の肉体が一つで、脳も一つで、神経のつながりも一つの肉体の内部に収まっているために、そのように区切られている、ということです。要するに、「一人の人間の中に一つの人格がある」というのは、肉体的制約や特徴から導かれた直感的で慣習的な理解ということになります。

けれど、これは慣習的な認識ですから、もちろん例外もあります。現実には胴体や手足が一組で頭だけ二組、という姿で生まれてくる人がいて、その場合、人格は「二人」と見なされています(アビゲイル&ブリタニー・ヘンゼル姉妹のように)。それとは逆に、頭部を含めた肉体は一つだけれども、精神内部で「二人以上」の人格を持っている人については、解離性同一性障害(多重人格)とされ、いずれも一般に健常者とは見なされませんが、存在しています。

そしてさらにもうちょっと極端に論を進めると、この場合に健康な人と見なされるか見なされないかは、多数か少数か、という違いに依っているのです。みんな肩から上に頭を二つ付けていれば、それが健常者であって、一つの頭に複数の人格を持っていれば、それが健常者となるということです。

話を戻すと、そんなわけで、「人格は慣習的に一人に一つと見なされている」ということを、この段落の結論とします。

さて、このブログとしては、じゃあこれが回復とどう関わってくるのか、というところが大事になります。

これまでACの回復については「欠陥住宅を直すようなもの」と例えたり、「外国語を習得するのと似たところがある」というふうに説明してきましたが、実際には、ACの回復・成長とは、人格を作り直すことであり、脳内の記憶と経験のネットワークを作り変えること、もっと具体的にいうと、脳の神経回路のつながりを変えること、と説明できます。

第3回の記事では記憶の仕組みから暴露療法による回復の原理を説明しましたが、これはトラウマ反応を弱めるためのものであって、新しい生き方をするには、これとはまた別に「学習」が必要です。これこそが「脳の神経回路を変えること」そのものなのです。それは例えば、信頼を示すコミュニケーション方法を理解したり、落ち着いた心持ちを自分のものにすることだったりします。

さて、最後に、人格を成している「記憶と経験のネットワーク」の特徴の一つに、つながり方に強弱がある、ということを述べておきます。よく練習したことはすぐに思い出してできるし、あまり練習していなかったことはなかなかできませんよね。ACの生き方は幼い時に身に付けたものですごくよく学習しています。だから、大人になってから新しい生き方を身に付けても、ACとしての生き方をすっかりなくしてしまうことはなかなかできないので、根気よく取り組む必要があるわけです。

それでも、新しい生き方をしっかりと身に付けてACとしての生き方を使わずに済むようにすれば、なくなりはしないまでも、現在の言動とのつながりは弱くなっていくので、ACとしての過去に囚われない生き方ができるようになるわけです。

というわけで、ACとして問題に取り組んで回復させようとしている「人格」とはそもそも一体何なのかについての、考察&説明を終えます。