本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第26回 頭と心と体を一致させる

 第8回の記事で「頭と心と体がバラバラとはどういうことか」ということで、ばらばらな状態について説明しました。

今回は、私が「頭と心と体を一致させる」ために役立った体験についてご紹介します。

はじめに断っておきますが、このやり方は私個人に合っていたやりかたではありますが、万人向けではありません。ぜひ、ご自身に会う方法を見つけてください。

さて、私の趣味は登山で、これが「頭と心と体を一致させる」訓練としてとても役立っています。登山を始めたばかりの頃は、ベテランに同行してもらっていたのですが、ちょっとしてから私はたいてい一人で登山をするようになって、それもあんまり人気のない山によく行っていました。人が多くいるところが嫌だったのです。一人での登山は気楽で、とても楽しく、毎週のように山へ行っていました。ただ、ひとりだと、怪我をしたり、疲れて歩けなくなったりすると、危険なんですね。誰も助けてくれない状況です。だから、自分の状況に自覚的である必要がありました。

つまり、山歩きをする時には、自分の限界を受け容れて、つねに自分の頭と心と体とを協調させ、現実的な折り合いを付けて、自分自身と仲良く、頭と心と体で一致団結して(ひとりなのに一致団結というのもへんですが・・・)、能力を発揮してなければならない状況だったのです。

もちろんまだ自己破壊衝動が強い時には、こういう危険なリスクを一人で負う行動はしなかったでしょう。

でも、そのときにはトラウマもだいたい片付いていて、ジョギングをずっと続けてきたので基礎体力もありましたし、なにより山登りが性分に合っていて楽しかったのです。

罪悪感を全く感じること無く心から楽しむ、ということができたのは登山が初めてです。感動しました。だからのめり込んだわけです。

登山をしている時には、自分の人生をくよくよ悩みませんでした。足場や道迷いや歩くペースやら天気や体の調子や疲労感などに気を配って安全に歩き続けなくてはならないので、そんなことしている余裕がないのです。山から帰って来ると疲れているにもかかわらず気分はとても晴れていて、仕事のストレス解消にもなっていました。

そんな一人登山の集大成となったのが、食料とテントのつまった23キロくらいあるザックを担いでスタートした4泊5日の北アルプス縦走でした。暑さで熱中症になりかけたり、その次の日には吹雪に巻き込まれたりしましたが、ともかく歩き続けた4日目。その夜に私は初めて「くつろぐ」という感覚を知りました。突然の吹雪のためにテント泊をあきらめて急遽小屋泊にしたのですが、カーテンで仕切られた狭い割り当ての空間で布団に寝転がって日記を付けていたらいろいろな思いが込み上げてきて、「ああ、自分はこれまでずっとがんばって生きてきたんだ」と実感したのです。「ずっと頑張って生きてた」とわかったのは、そのとき初めてくつろいでいたからです。以前の記事で「瞑想でリラックスを意識してそれができるようになったら、自分がずっと緊張して生きていたことがわかった」ということを書きましたが、それと同じようなことです。それまで、頑張ってない状態が無かったから、頑張ってたってことが分からなかったのです。でもそのときには、いつのまにか「頑張ってない」状態になっていたために、これまでの自分を振り返ったとき「頑張り続けていた」ということが分かったのです。そして、「頑張ってない状態=くつろぐ」ということもわかったわけです。また、自分がこれまで生き抜いてきたことを誇らしく思い、涙が出ました。

これ、実はまだ去年の秋のことで、一年も経ってません。

わたしが人生において、くつろいで気楽にしていられるようになったのは、だから本当に最近のことなのです。でも、それからは人と関わるのもずいぶん楽になったし、冗談を言ったりできるようになりました。肩の力を抜いて、ものごとに取り組めるようにもなりました。

私の場合には、たまたま登山が「頭と心と体を協調させる」訓練になったわけですが、当然ながら、登山をすればみんながみんなこうになるってわけはありません。

でも、トラウマを片付け、子ども時代に抑圧されてきた感情を見つけて、新しい、本来持っていた自分の人格をまとめていく過程では、誰でもなにかしらこういった「ちょっとした冒険」を通して、新しい人格の統合を図ることになるんじゃないかと思います。

どうしてかというと、健康的に育った子どもは思春期にみんなちょっとした冒険をして自発的に世界と関わる中で、世の中や自分という人間を知ったりして成長して大人になるわけですが、わたしにとって登山はそんな「ちょっとした冒険」の役目を果たしていたからです。