本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第28回 愛着形成による人格生成について

子どもが健康な精神発達を果たすためには幼児期の愛着形成が重要だ、ということは発達心理学であったり、あるいはACの本にも書いてあったりするのですが、それがどんなふうに人格発達に寄与しているのか内的な仕組みはどうやら概念化されていません。

と思ってたら、調べたところ「内的作業モデル」というのが「愛着形成」と同時にボウルビィによって提唱されていました。これは保護者との関わりの中で受けたフィードバックが後々まで子どもの価値観を規定する、というものです。ACの問題でいうところの「親から植え付けられた価値観」ということですね。

私も別途、似たようなことを思い付いたのですが、私の考えたモデルの方が保護者と被保護者である子どもの心理的相互作用のイメージが具体的で、一段うまいこと人格ができていくプロセスを説明できているように思いますので、ご紹介します。

ところで、「愛着形成」という言葉について、このブログをご覧の方ですとご存じの方も多いかと思いますが、大まかな意味を説明しておきます。

幼い子どもは保護者にべったりくっついてかまってもらいたがります。これを愛着行動と呼びます。乳児や幼児はそれを情緒的に必要としていて、その愛着行動の欲求が満たされないままに大人になると、ひどく自尊心が低かったり、情緒不安定だったり、人や物やなにがしかに依存的になったりする、つまりAC的な要素を持つ、というようなことが言われています。

どうしてそうなってしまうのでしょうか?

私は、愛着行動は人格の骨組みを作る過程(プロセス)であると理解をしています。それに沿って、健康に育てられるパターンと、ACのパターンとを挙げて比較しながら、「愛着による人格形成」について説明します。

幼児にはまだしっかりとした人格がありません。身近な大人に愛着を抱き、主にその大人との安定した関係性を通して人格が創りあげられていく、というのが良しとされる一般的なパターンです。

この「安定的な関係」を通して、具体的にはどういうことが起こっているのでしょうか?

幼い子どもの心はやわらかく不安定で人格らしい人格はありませんから、自然と何かに頼ろうとします。その時期に子どもを世話する保護者が子どもに対して愛情と思いやりを持って接している場合、その保護者は子どもの振る舞いを気に掛けて、心を開いて受け入れます。つまり、子どもを世話する人の心に、子どもの言動や特性があれこれ刻まれます。子どもからすると、低反発枕みたいにやわらかくへこむ相手に自分の心を受け止めてもらえることになります。つまり、子どもがいろいろなことをするたびに、愛情を持って世話する保護者の心は、いろいろな形にへこんで子どもの心を受け止めてくれるわけです。しばらく子どもの世話をしていれば、この保護者の心には、子どもの心を受け止めたことによってできた複雑な形のくぼみができあがっているはずです。これは子どもの心の形を受けたくぼみとなっているのです。そして子どもはこの保護者に自分のやわらかい心を投げかけるたびに、自分の言動が作った保護者の心のくぼみをなぞったり、かたどることになって、結果的に同じような場面では同じような心を使って同じような反応を示すことになります。あるいは違った行動を採ることで新たなくぼみが作られたりするわけです。これを繰り返すことによって、だんだんと心全体の形が明確になっていくのです。それをいろいろな場面で何度も繰り返すことで、独自で複雑な凹凸を持つ固有の人格のひな形が作られていきます。なお、保護者は、どこまで子どもの心を受け入れるかということを調整するなどで、しつけを行えるわけです。

より具体的なイメージでこれを説明すると、世話をする保護者が、世話をされる子どもの心の、鋳物でいうところの雌型みたいな働きをしています。「雌型みたいな働きをしている」ということから、愛着形成の段階では、複数人ではなく、特定のごく少数の保護者と愛着関係を持ち、最低限の人格のひな形ができるまで年単位の長期的な関わりが大事になるということも理解していただけると思います。数多くの保護者の心に、雌型があちこちばらばらになって形成されたのでは、子どもは雌型をなぞって自分の人格を形成することが困難になるからです。さらにもういっぽうで、親から虐待を受けている子どもが、それでも親に対して愛着を抱き続ける理由も、ごく少数の保護者に依存せざるを得ないこの人格形成の仕組みにある、と説明できます。

さて次に、ACの育つ環境を考えてみます。

たいていの場合保護者は幼児のことを十分に気に掛けていませんから、子どもは、愛着を十分に形成できる相手がいません。つまり保護者は、幼児のことを適切に受け止めるために心の形をきちんと変えてくれないのです。すると、いつまで経っても保護者の心はちょっとしかくぼみませんから、これに基づいてかたどられる子どもの人格も十分に形成されません。また、逆に、子どもの自然な心の発達を無視して、まだやわらかい心を力尽くで変な形にする保護者がいます。またこれらを同時に行うケースもありますが、これが心理面に於ける典型的な虐待の説明となります。さらには、子どもの言動を受け止める人が周囲にまったくいないケースもあって、これだとそもそも人格を作るための雌型がないわけで、ほぼまったく人格が形成されません。これが虐待の、特にネグレクトに相当します。ネグレクトは、暴力を受ける家庭で育った場合よりも回復が難しいということが、虐待を扱った本には載っていますが、この人格生成のモデルからもその理由が説明できます。

ちなみに私自身も、どちらかといえば親からの扱いはネグレクトに近かったです。

そして、4歳頃に母親のことは「このおばさんは自分の世話をしてくれるけれども一体なんなんだろう?」と感じていました。要するに、信頼していませんでした(信頼の感情を知ったのは二十歳を超えてからです)。もちろん、外出時に親とはぐれて不安になるということはあったのですが、甘えたりはほとんどしませんでした。甘えてはいけないと思っていたし、よく考えるとそもそも甘えるってことがよく分かりませんでした。食事の世話とかはしてくれるものの、味方だとは感じていませんでした。私自身は、以前書いたように「ぬいぐるみだけが自分の仲間」と感じていたのです。姉からいじめられて泣こうが叫こうが全然心配してくれなかったし、姉を躾けることもなく、ただ怪我をしたら医者に連れてく、というように、家庭内の状況には人ごとみたいに受け身で、対応はルーチン的で、私の心情を気に掛けてくれる様子がほとんど無かったのです。基本的には、死ななければいい、という考えの下で世話をされていたと思います。だからなのか部屋とかはものすごく汚かったです。

さて、そんなわけで私含めACの人はたいがい愛着形成がうまくいっていないわけです。AC向けの本には、「大人になってからでも子どもをやり直せばいい」ということを謳い文句にしている本が結構見受けられます。

私はこの主張について、ごく一部はそういうところもあるかもしれないが大筋としては間違っている、と考えています。どうしてなのか説明しますね。

例えば日本で生まれ育って大人になってから英語圏の国に移住して英語で生活することになったとして、子どもみたいに生活の中で自然と英語を習得して半年もすればすっかり日常英語に困らなくなる、なんて甘いことを考えている人はあまりいないと思います。

外国語学校へ通うなりなんなりして、文法とか単語とか、分解して教わる必要があります。理解の仕方からして違うのです。そして、母国語とは違う第2言語として習得することになります。そんなわけで、大人になってから外国語を学ぶには、子どもが母国語を学ぶのとは違う方法が必要で、子どもと同じ方法を採ったのでは、効果薄なんです。「子どもをやり直す」方法が間違っていると私が言うのは、これと同じ理由からです。

じゃあどういう方法をとったら良いのか、ということになると、「自助グループがあるよ」とか「思いだして書き出すことだよ」とか、「瞑想がいいよ」とか、何度も書いてきたことになるわけですが、今回ご紹介した「愛着形成による人格生成」を踏まえた説明を、また別の機会に書きたいと思います。