本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第30回 ACとして身に付けた能力

アルコール依存症者の子どもたち」という、AC研究の先駆けとなった本で、著者のJ・G・ウォイティッツ氏は「ACの問題は、基本的には情報の不足だと思っている」というふうに書いています。

この本はすばらしい本なのですが、これだけだと片手落ちの理解だと現在の私は考えています。実際には「情報の不足」だけじゃなくて、さらに、情報の不足を補うことを邪魔するトラウマや、別の、たいていはネガティブな感情を基本にした生き方を強固に学んでしまっているし、そのうえ、その「不足した情報」については、これを学ぶのに最適な人生の時期を逸してしまっている場合も往々にしてある、ということもACにとっての足かせとなっていると考えています。ですから、実際には情報の不足というよりも、自分を幸せにはしない生き方の情報ばかりしっかり学んでいる状態だと言えます。

このブログの初回で言ったようにACとは「すごく偏った感情の経験」をしているのだということです。

そうなると当然、当事者である私にもすごく偏った経験を通して身に付けたものというのがあります。社会的には全く役に立たないものですが。

言葉の暴力を受けて育った私には、ほとんど直感的に相手が一番言われて傷つく言葉が分かりましたし、それで効果的に相手を傷つけることができました。

人間にそんな感知能力があるなんてたぶんみなさんご存じないと思います。

でも、十数年にわたってクソミソにいわれて死にたい気分になりながら、自分もいかに言葉で人を嫌な気分にさせられるか、ということを考え続け実践し続けると、そういう「悪口の達人」の境地に達することができるのです。格闘技や武道の達人は、対峙する相手の弱点が見えるそうですが、私はちょっと話をすると、相手がもっとも傷つく言葉が読めたわけです。そう、マスターです。冗談みたいでしょうが、これは本当のことです。

少し例を挙げると、私は小学校に入学して間もない頃に小学六年生のガキ大将と喧嘩して、勝っています。私はそのころはすごく負けん気が強くて、とりあえず一番上の学年の一番強いヤツを倒しておこうと思ったのです。ついでにいうと相手は二人組で、私は一人でした。私は相手の悪口を言って相手を泣かせて、勝ちました。これが切っ掛けで私は小学6年生の手下を従えることになり、肩車とかしてもらって遊びましたね。

言葉で人を傷つけることについては、11歳頃から意識してあまり使わないようにしていましたし、回復のプロセスを通じて無意識に出ていた言動まで意識化して変えてきているので今ではすっかりこの能力は衰えたと思うのですが、しかし言葉で人に影響を与えることについて、しばらくの間はいくらか変わった能力が残っていました。

もう十年も前のことですが、ミーティングでの分かち合いのときに、特別理由はないのですが思いつきでなんとなく「(ミーティングに参加している)この人が(悲しくなって)泣くような話をしよう」と思う時があって、そうすると本当に、私の話を聞いているとき狙ったその人だけが泣く、ということになりました。これは何度かやっていますので、たまたまじゃあないです。三、四人のいつも決まったメンバーでしたから、なんとなくその人だけが泣きそうなことに察しが付いたのですね。もちろん作り話をしたわけじゃなんて、自分の持つどのエピソードをどんなふうに話すかということを調節した結果なのですが。

要するに私は、言葉で他人のネガティブな感情に働きかける能力が猛烈に発達していたのです。日常でもそのほかの場面でも、まったく使いどころのない能力ですが、私は子ども時代にひどく苦しみ結構な犠牲を払いながらそういう使い道のない能力を発達させてきたことは事実です。ACでない子どもはこうした能力を身に付ける代わりに、愛情や思いやりやコミュニケーション能力といった、生涯使える生き方を身に付けたりしているわけです。私は必死に身に付けた悪口能力を、また必死になって捨てました。そしてまた改めて愛情や思いやりに基づくコミュニケーションを学んでいるわけですが、「なんと遠回りをして生きているのだろう」と思わされますね。

あっ、「日常では使いどころがない」と言った「言葉で人を傷つける」能力ですが、今の時代に私が十代の若者だったら、流行っているラップバトルに出て対戦相手の心をへし折るために使っていたかもしれません(笑)

「悪口能力」の他にも、ネガティブな体験に見舞われて普通の人だったら動揺するだろう場面であまり動揺しないということも、たぶん子ども時代に身に付けた生き方のひとつです。

以前勤めていた会社で、代表が不祥事を起こして警察に捕まることがあって、会社の人はみんなすごく動揺していたのですが、私はあまり普段と変わることがなくて(面倒くさいなと思ったけど)、新聞記者やおっかない人の対応も私が冷静にやって、当時の同僚達からすごく頼りにされたことがありました。

私はネガティブな感情が蔓延する混乱した状況に慣れていて、強面だったりガラの悪い人にも、ぜんぜんおびえません。私自身は、すごく丁寧に人に対する方だと思いますし、柔弱に見られることが多いんですけどね。別にメンタルが強いわけではないのですが(むしろ弱いし踏ん張りがきかない)、そういうのは大丈夫です。

なかなかこんなふうに、ACの偏った経験で身に付けたユニーク(?)な能力というのは語られることがないと思います。社会集団に溶け込むために障害となる部分ばかりがフォーカスされますからね。

かつては「言葉で人を傷つける」ことを極めた(のかな?)私ですが、18歳の時に「その逆のことをしよう、できるようになろう」と思って、今に至るということもあって、私のブログから、ACとして傷ついた心に対する「思いやり」や「愛情」を感じてくれる人がいたならばありがたいです。

それこそが、私がこれまで回復に努めてきた方向性が間違っておらず、生き方が変わっているということの証拠ですからね。