本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第31回 人格の許容量

人格には、受け容れられる限界、許容量のようなものがあります。

それを超えたり、無視したり、むりに受け容れようとすると参ってしまったり、いろいろ不具合が出ます。

受け容れられる限度は人それぞれだし、種類も様々です。ある人にとってはストレスフルな状況が他の人にとってはそうでないということは多々あります。例えばわたしにとって登山はレジャーですが、ただ苦痛や苦行にしか感じられない人もいるでしょう。

また、ある人にとって化粧をいろいろ試すことは楽しみかもしれませんが、わたしにとっては苦痛です(そもそも化粧をしたことはないですが)。

こんなふうに、人それぞれ違いはあっても、受け容れられる体験に限界があることには変わりありません。

それは日常的にあらわれているし、世界の情勢にも反映されています。人間は多かれ少なかれ自分と違う生き方をする人(あるいはそのほかの動物に対してでもいいですが)に対して排他的な行動をとる傾向があります。その証拠に人類は、文化とか民族とか肌の色とかで区別してよその集団と争うということを、何千年だか何万年だか、飽きもせずにしています。

そもそもこういう人種やなにかの区別は人間が恣意的に作ったもので、区別しなくちゃならないというものではありません。それでも区別したがるのは、理性的な行動というよりは、動物としての縄張り意識なのでしょう。犬のマーキングみたいなもんです。人間はもちろん動物ですから、他の動物にあるように、縄張り意識を持っているわけです。それを、性別とか生まれとか宗教とか信条とかなんやかや、いろいろ理屈めいたことを言って脚色して、表現しているわけです。これについて私は、「人間という動物の縄張り意識の現れ方にはいくらかバリエーションがあるのだ」と、理解しています。

そういうわけで、縄張り意識としてもそれは出ているように、人格には許容量があります。

さて、人格に許容量があるということと、トラウマの関係について考えてみます。

どうしてかというと、トラウマというのは自身の人格の許容量を大きく超えた体験をすることで生じると、私は考えているからです。

さて、ちょっと話が変わりますが、同じ戦場で戦った人のなかで、その体験がトラウマになる人とならない人とのあいだに、ある程度性格の違いがあることがわかっています。

トラウマ研究の名著である、ジュディス・L・ハーマン著『心的外傷と回復』には、ベトナム戦争の帰還兵を対象としたトラウマの考察が載っています。そこでは、トラウマを発症しやすい人の特徴として、一匹狼的な生き方をしている人、教育の程度が低い人、などと載っています。逆にトラウマになりづらい人というのは、苦境でも仲間を大事にして力を合わせ最善を尽くそうとした人、死体損壊など過剰に暴力的な行動をしなかった人(怒りに身を任せなかった人)、理不尽な命令には抗議をした人、とされています。ただこうした性格の違い以前に、トラウマの原因となるようなできごとの度合いが、トラウマ発症の有無の最大の要因だと、はっきり述べられています。当たり前といえばそうですが、酷いできごとを体験するほど人はトラウマ発症の確率が高まるのです。そのほか、どの本に載っていたのか思い出せないのですが、トラウマ一般に対して、言語能力が高い人の方が回復しやすく、また事前に十分な期間トレーニングを積んで戦場に適応していた人の方がトラウマになりずらいということも、どこかで見聞きしました(追記:A・ヤング著 中井久夫 他 共訳「PTSDの医療人類学」に載ってました)。

さてここで、トラウマ体験という目に見えない心理的な衝撃を、物理的で目に見える「モノ」に置き換えて考えてみたいと思います。

100kgの鉄筋が上から落ちてきた時、一人で受け止めようとしたら、たいていの人は受け止められず、骨折など酷い怪我を負ったり、当たり所が悪ければ死んでしまいます。しかし、多くの人で力を合わせて受け止めたとすれば、怪我をする事なく無事に支えきれるかもしれません。力を合わせるためには他の人と声を掛け合う必要が生じます。声を掛けられれば、周囲の人の力を得られ、危険の程度を小さくできるわけです。また普段から体を鍛えている人の方が怪我のリスクは小さくなるでしょう。

この、物理的な衝撃への対処の仕方と、さきに書いたトラウマ発症になりやすい人とそうでない人との違いとは、経緯がかなり似ていると思いませんか?

さらにいうと、たとえ怪我をしたとしても、周囲のサポートを得てすぐに治療されれば回復が早く、逆に一人きりで治療が出来ない場合には症状が悪化するという点でも、物理的な怪我とトラウマの経過は同じです。

こんなふうに、トラウマ≑「心理的な怪我」というふうに考えると、理解しやすくありませんか?

身体の怪我には、擦り傷から全身打撲や脊椎損傷などのかなり重篤なものまで、かなり幅があります。同様に心の怪我にも、擦り傷程度から全身打撲まで、いろいろあるわけです。

トラウマを発症する「人格の許容量を超えた体験」というのは、肉体であれば骨折や全身打撲になる、あるいは死に至る、そういうレベルの体験のことだと、私は考えています。

トラウマの症状のひとつに、「乖離」というのがありますが、これは精神的にどのような働きが起こって生じているのか考えてみます。

繰り返しになりすが、トラウマ体験は、その人の人格が受け止めきれないほど重い体験です。降ってきた鉄骨を受け止めようとすれば体のどこかを痛めるように、過酷な体験は心(人格)の一部を傷つけます。ただし、降ってきた鉄骨は避ければ無傷で済みますが、トラウマ体験は、すでに自分の人格を構成する「体験」という要素の一部ですから、逃げられません。そこで、人は、許容量を超えた体験の重さに、既存の人格が押しつぶされないように、乖離という方法で、既存の人格とトラウマ記憶とを統合せず宙ぶらりんにしておく、というイレギュラーな対応を取るのだと、思います。

しかし、いつまでも宙ぶらりんで置いておけるわけもなく、体験された出来事というのは基本的には自動で既存の人格に統合されるよう働きますから(これは毒であれ養分であれ食べたものが自動的に消化吸収され肉体の一部に統合されるのと同様、不随意の働きなのです)、フラッシュバックとかが起こるのです。体が受け付けられないものを食べてしまい腹痛に苦しむのと、なんだか似ていますね。

さて、このブログの第3回で書いたように、トラウマ記憶は再体験されるものです。そして、再体験の際に「安心できる環境にいる」ということは、つまり、落ちてくる鉄骨をみんなに支えてもらう、という事なのです。みんなに支えてもらえば、あなたは無事その体験を受け止められる(あるいは消化できる)ようになるのです。その過程では、あなた自身の「心の筋肉」みたいなものもある程度鍛えられることでしょう。また、重いものを支えて力を発揮するための姿勢(フォーム)やバランスの取り方とかいった身ごなしみたいなものの心バージョンである「心の姿勢やバランスの取り方」も、きっと少しずつ分かってくるでしょう。

そうすることによって、あなたは成長し、トラウマ記憶からの回復がなされるのです。

そして、回復の際に身に付けた「心の筋肉」や「心の姿勢やバランスの取り方」は、あなたが生きていく上で役立つ「心をしっかり保つ技術」となって身についているはずです。

 

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