第40回 ACとして「まとも」に生きるとは?
このブログで何回か書いてることですが、世間から見て「おかしい」とされるACの特徴は「知らないことだからできない」とか「環境に適応した学習の結果」であったりします。それは病気とは違って、人として正常な成長の結果で、むしろ道理にはかなっていて、ぜんぜんおかしくなんかありません。
逆に、ACとして育ち、思いやりをほとんど掛けられたことがないのに思いやりをやたら知って使えていたら、その子は先天的な天才というか、異常な子で、本当に「おかしい」のはむしろそんな子どもでしょう。それは日曜洋画劇場で字幕付き洋画を観ただけで英語がネイティブ並みにしゃべれるようになり、そのいっぽうで四六時中聞いている日本語はろくにしゃべれないままの子ども、というのと同じような異常さです。そんなことは普通に考えて、まずあり得ません。自然の摂理に反しています。
ACの性格特徴についてはどうしても目の敵のように考えてしまうのですが、それはわたし自身を生き延びさせてきた能力だということは事実で、そのことを否定すると、それは結局自分が生きてきたことを否定することになるわけで、自分が傷つくことになるのです。それは自分の右手を左手で殴っているみたいなことです。
というわけで、私がACであることは自然の摂理にかなったことで、さらにいうと私は自分が摂食障害になったのも「普通のこと」だと思っています。
私が普通の人だから、人間的な反応として、摂食障害になったのです。
ストレスを発散する手段を持たず、感情の抑圧もかなり強い(通常不随意反応とされる、不意に「わっ!」と背後から声を掛けられたときにビクンとするような反応も完全に押し殺せたくらい)私という人間が、このかなり強力な感情の抑圧でも完全には支配できない領域である「食べる」という、生物が生命を維持するための根源的な行為を通して、外的なストレスという、大げさにいうと生存への脅威に応じようとするのは、生物の防衛本能として極めてまっとうな反応だと、そんなふうに考えていましたし、現在もそれは変わりません。
手短に言うと、過食という行動は、生き物として、ストレスへのもっとも根源的な反応だと理解していたのです。だから、わたしにとっては、全然おかしなことじゃありませんでした。それすら出来なかったら、なおのこと苦しんだことでしょう。全くストレスを発散できなくなるのですから、精神がすっかり崩壊していたかもしれません。
また、回復して「普通になる」というのも、誤解を生む考えだと思います。
自身と社会とで折り合いが付くような生き方を獲得する、という面では「普通になる」ということかもしれませんが、いわゆる「普通の人」とはそのプロセスが変わってくるので、回復したことについて注釈なしで「普通になった」と表現してしまうのは、誤解を生みます。
それは大人になってから英語を勉強しはじめて、英語での生活に困らなくなったら「ネイティブになった」といってしまうのと同じ間違いです。大人になってから英語を勉強したら、いくら上達しても「ネイティブ」にはなりません。それは生まれ育った状態を指す言葉だからです。ACが「普通になる」というのも、そういう意味合いで間違いです。変えられない過去までが変わるわけじゃないのです。どれだけ回復して、AC的な特徴があらわれなくなったとしても、ACでなくなることはないのです。また「回復して普通になる」という考え方は、ACの回復を妨げることにもつながると思うのです。つまり、表面的な言動をいわゆる「普通の人」に合わせることが回復なのだ、というような安直で誤った理解に結びつきやすいのです。
当たり前なのですが、会社員として働いていて結婚して子どもがいて家を建ててローンを払っているからACではない、ということにはなりません。でもACはそんなふうに考えやすいのです。
私自身についていうと、現在だけを見るといわゆる「ただ普通の人」 みたいな反応なり、考え方をしている部分も少なくないと思いますが、「ただ普通の人」っぽく見えているだけで、そういう人間に至ったプロセスは全く異なります。また実際に異なる部分も本当は少なくありません。
そもそも私自身は「普通」になろうとして回復してきたわけではありません。「思いやり」や「愛情」に基づいた生き方ができるようになりたくて、回復に努めてきたのです。そして、そういうのが分かるようになってきているし、人付き合いでも思いやりや信頼を基本に人間関係を築いている、という実感があります。でもそれは「普通」になったわけではありません。これは私固有の生き方なのです。
私は、大人になってから、「思いやりや気遣いを人間関係の基本として」生きることができるようになった人であっても、その情緒的発達段階を追えば、明らかに「普通の人」ではありません。死ぬことばかり考えた子ども時代を生きた人であることに変わりはなくて、それは「普通の人」の範疇からは外れます。
ただ、まともな人、にはなりたいと思ってましたし今もそれは変わりません。
「普通の人」と「まともな人」を意識して区別する人はあまりいないかもしれませんが、かなり違うと思っています。普通の人は、よくいる人、というくらいの意味で理解しています。すごく意地悪な人だって陰口やうわさ話が好きな人、浮気する人だって、普通の人です。金銭や社会的な地位や名誉を人間関係の基本にする人だって、よくいる普通の人です。私は、手間暇かけて回復してそういう人になりたいとは思いません。
私がそうありたいと思う「まともな人」というのは、情況判断とかが理性的、つまり社会的なことや相手の心情を踏まえた言動のできる人です。そしてそれは、「ネイティブ」とか「普通の人」みたいに生まれ育った環境だけで決まることではありません。
さて、私の理解では、ACから回復するということは、ACの特徴を持って生きていることを否定することではありません。むしろその反対で、自分や自分の過去を受け入れて、自分をよく知ったうえで、自分にとってより生きやすくおだやかな感情でいられる生き方を選択する方法を獲得していく、そうやって新しい自分がACとしての自分からバトンを受け取ることなのです。
回復のプロセスを通じて、ACのことも、ACでない人のことも以前に比べてだいぶ理解するようになりました。だからACでない人とのコミュニケーションでも、ACとのコミュニケーションでも、あまり困りません。バイリンガルみたいなもんです。この二者はかなり違う文化で生きているのです。
そのため、回復のプロセスには、自分と他人を理解しようと継続的に努力する、という要素がとても強くありますが、それは、それこそが自分と自分以外の人を受け入れ愛するということの実践で、回復の要だからなのです。