本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第43回 安心できる場で内面を表現して、受け入れてもらうこと

「心的外傷と回復」を読んで以来、私はずっと、「回復に際して、言語能力が低いとすごく不利になる」と考えていました。もっというと、言語化できないと回復はできないと思うくらい、回復に言語化は必須と信じていました。以前書いた記事の中でも、言語能力の高さと回復の程度には強い相関がある、ということには触れています。

しかし最近、最相葉月『セラピスト』を読んでその認識が変わりました。

著者が箱庭療法を受けて自身の内面と向き合い成長していく過程を読んで、心に抱いているイメージをなにかしらの方法で表現してこれを理解し受け入れてもらう体験が回復の肝であって、表現の方法は必ずしも言語に拠らなくても良い、ということを理解しました。

それは確かに回復の理屈からしても納得のいくものです。

言葉に限らず、なにがしかの活動(お人形あそびや、絵を描くこと、演劇といったことは該当するでしょう)によって内的なイメージ(トラウマ体験など)を表現するプロセスを通じて脳内でその出来事を再体験している、まさにそのときに安心できる人間関係に触れていれば、記憶の再定着のおりに安心感がすり込まれて結果的にトラウマ記憶が弱まる、という働きは起こってしかるべき生理現象だからです。

そうして考えていくと、つまるところ、「安心感を持って他者に受け入れてもらえるか」ということが、人が回復・成長する必要条件なんだな、と思いました。

本文中にも、クライアントが箱庭なり絵画によって自身の内面を表現しているあいだ、セラピストが心理的にクライアントに寄りそってその場にいることで治療的な働きが生じるもので、その場にいる治療者との相互作用で成り立っている、ということが書かれています。ただクライアントに勝手にやらせて治療者が一方的な解釈をする、というものではない、ということです。

私は、内面の表現といえば「言語」に拠るものだと、特にわたし自身言葉が達者なことも影響しているのか、強く思い込みすぎていたように思います。『内面の表現』は言葉には限らないなんて、ちょっと考えれば当たり前のことなのに思い当たりませんでした。

ただ、箱庭療法や絵画療法で表現された内面を他者が的確に理解するにはどうも相応のトレーニングが必要だったりセンスが問われるようですので、言葉の方が手軽で万人向けかな、とは思います。

 

本当は、語りによる回復であれ箱庭療法であれ、大人になってわざわざしなくても済むような子供時代を過ごせるのが一番です。

つまり、子供の頃、辛いときや悲しいときに心配して抱きしめてくれるような人がいれば、たいていの場合は、大人になってから「なんとか療法」みたいなことに多大な労力を費やさなくても済むはずなのです。

回復の仕組やら方法について考えると、あとになって問題に対処するというのがいかに面倒くさいことかということにいつも思い当たります。