本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第44回 子供の幸せを願わない親はそれなりにいる

ストレートに言いますが、「子供の幸せを願わない親なんていない」というクソみたいな神話(というか、ファンタジー)は早くなくなって欲しいです。

物事をよりよい方へ進めようとするなら、現実をきちんと認識して対処する必要があるのですが、この神話(というか、おめでたい考え)はそれを阻んでいます。

現実を踏まえた社会の常識として、親を含めた保護者一般が子供に対して愛情を持つとは限らないし子供の幸せなんて願ってないとか、爪垢ほどは願っていたとしても自分の幸せを圧倒的に優先する人間も珍しくはなく育て方もろくすっぽ考えずとんちんかんなことをやってることはよくある、という認識であって欲しいものです。

つまり、タイトルの通り「子供の幸せを願わない親はそれなりにいる」という考えが常識になって欲しいのです。

そうすればそれを社会制度で補うことだってできるわけです。

具体的には、母子健康手帳や子供の保護者になる人が目を通す必要がある公的な読み物やら配布物に「例えそれが自分の子供であっても、手を挙げるのは犯罪行為です。『躾のため』というのは子供を虐待し暴力を振るう親の典型的な言い訳です」「子供を、ストレスをぶつける対象にしてはいけません。それは虐待です」「あなたがたとえ自分の子供に対して愛情を抱けないとしても自分を責めないでください。そして絶対に相談してください。相談窓口はどこそこです」とか書いとけば良いのにと思います。

保護者側の啓蒙だけではなく子供の頃から学んでいた方が良いですね。「いじめ」についてはたしか道徳で取り上げられていると思うのですが、同様に「家庭の役割と虐待」というテーマも作って教えて欲しいものです。要点を簡潔に記述すれば教科書には1ページぐらいで納まると思うんですよ。

 

こうした知識が徹底的に広まれば、無駄に虐待されて苦しむ子供がいくらかは減ってよりよい社会になると思うのです。

第43回 安心できる場で内面を表現して、受け入れてもらうこと

「心的外傷と回復」を読んで以来、私はずっと、「回復に際して、言語能力が低いとすごく不利になる」と考えていました。もっというと、言語化できないと回復はできないと思うくらい、回復に言語化は必須と信じていました。以前書いた記事の中でも、言語能力の高さと回復の程度には強い相関がある、ということには触れています。

しかし最近、最相葉月『セラピスト』を読んでその認識が変わりました。

著者が箱庭療法を受けて自身の内面と向き合い成長していく過程を読んで、心に抱いているイメージをなにかしらの方法で表現してこれを理解し受け入れてもらう体験が回復の肝であって、表現の方法は必ずしも言語に拠らなくても良い、ということを理解しました。

それは確かに回復の理屈からしても納得のいくものです。

言葉に限らず、なにがしかの活動(お人形あそびや、絵を描くこと、演劇といったことは該当するでしょう)によって内的なイメージ(トラウマ体験など)を表現するプロセスを通じて脳内でその出来事を再体験している、まさにそのときに安心できる人間関係に触れていれば、記憶の再定着のおりに安心感がすり込まれて結果的にトラウマ記憶が弱まる、という働きは起こってしかるべき生理現象だからです。

そうして考えていくと、つまるところ、「安心感を持って他者に受け入れてもらえるか」ということが、人が回復・成長する必要条件なんだな、と思いました。

本文中にも、クライアントが箱庭なり絵画によって自身の内面を表現しているあいだ、セラピストが心理的にクライアントに寄りそってその場にいることで治療的な働きが生じるもので、その場にいる治療者との相互作用で成り立っている、ということが書かれています。ただクライアントに勝手にやらせて治療者が一方的な解釈をする、というものではない、ということです。

私は、内面の表現といえば「言語」に拠るものだと、特にわたし自身言葉が達者なことも影響しているのか、強く思い込みすぎていたように思います。『内面の表現』は言葉には限らないなんて、ちょっと考えれば当たり前のことなのに思い当たりませんでした。

ただ、箱庭療法や絵画療法で表現された内面を他者が的確に理解するにはどうも相応のトレーニングが必要だったりセンスが問われるようですので、言葉の方が手軽で万人向けかな、とは思います。

 

本当は、語りによる回復であれ箱庭療法であれ、大人になってわざわざしなくても済むような子供時代を過ごせるのが一番です。

つまり、子供の頃、辛いときや悲しいときに心配して抱きしめてくれるような人がいれば、たいていの場合は、大人になってから「なんとか療法」みたいなことに多大な労力を費やさなくても済むはずなのです。

回復の仕組やら方法について考えると、あとになって問題に対処するというのがいかに面倒くさいことかということにいつも思い当たります。

 

 

第42回 「トラウマ」は存在する

ちょっと前になるけれども、アドラー心理がブームになったことがあった。わたしはその著書を読んだわけではないけれども、気になる主張があった。アドラー心理学においては「トラウマ」というのが否定されているらしい。

でもその主張はナンセンスだ。トラウマというのは、学習や記憶の在り方の一部だ。だから、トラウマが存在しないならば、「脳内において、記憶や学習の仕組みや恐怖の感情は存在しない」ということになる。そんなわけはない。

アドラー心理学が役に立たないとかインチキだとかいうことをいいたいわけじゃない。今も通用する内容もあるのだろうが、なにせ今みたいな脳科学の知見のない時代に考えられたものだから、現在分かっていることに照らしてみると明らかに間違っているものも多分に含まれている、ということだ。 

ずっと前の記事でも「トラウマは脳の神経のつながりによって現実に存在する」というようなことを書いた。

その主張の繰り返しになるけれども、「トラウマ」は存在します。

 

番外編 重度障害者国会議員への批判について

先の選挙で、れいわ新撰組から立候補していた重度障害者のお二人が当選しました。

そしてお二人は、介助がなければ議員活動ができないので必要な補助を認めるよう国に求めました。

この二人の主張に対して、現職の政治家からのものも含め多くの批判が発信されています。

「政治資金もでるし、高給取りになるんだから、ポケットマネーで払え」とか「特別な介助が必要とはけしからん」とかおおっぴらに言う人がいるわけです。

けれど日本では、参議院議員の被選挙権の条件に「日本国民で満30歳以上であること。」ということを掲げていて、お二人はこれに合致しています。であれば、正当な手続きを経て国会議員になったのですから、お二人を受け入れ活躍できるように国会が人なり設備なり制度を整備する、つまり、インフラを整える努力義務があります。

その点、今回国会はお二人を受け入れるために今のところこの努力義務を果たしている様子で、当たり前のことだと思った次第です。

さて、この民主主義国家日本の制度では当然なされるべき配慮を批判する人の言い分のおかしさについて、ちょっと考えてみます。

批判する人たちは、「重度障害者が国会で活動するために必要なインフラは自前で用意しろ」と言っているわけです。なんでかというと「自分には必要ないし、これまで国会議員になった人にも必要なかったインフラだから」いうのがその論拠のようです。実際には、いろいろ違った言い方をしていますが、最終的な言い分はここに着地します。なにしろ、もし以前から十分にインフラが整えられていれば、今回お二人がこのような意見を言う必要もなくスムーズに登院していたでしょうし、今回のように批判がわらわらと湧き起こることもなかったはずだからです。

批判する人たちの理屈でいくと、「俺が行かない県に俺の税金を使って道路を作るな、だって俺は使わないし必要ないから」とか「点字ブロックなんて要らない。俺は使わないし、ほとんどの人にも必要ないだろう。必要な人が自分のポケットマネーを使って整備すればいいだろう」とかいう主張も、出てきます。

この主張の原理は、ものすごく利己的・排他的で民主主義社会とは相容れない考えです。極論すると、彼らの思想信条とは「自分を利する人や物以外は必要ない」と、ただそれだけだからです。まったく思いやりがありません。

それだけでなく、「みんなで支え合って生きる」という、民主主義というか、それ以前の、集団生活をする人間としての基本的な理念とも相容れないような考え方です。

ちょっと話しが大きくなってしまいましたが、れいわ新撰組のお二人が「自分たちが国会議員として働けるようにして欲しい」と求めているのは、それまで「条件を満たし正当な手続きを経れば誰でも国会議員になれる」と約束していながら実際には長年それが実現できない状態であった国会の制度や設備上の不備を明らかにしているだけなので、お二人にまったく非がないのです。ですから、高給取りであろうがなかろうが、ポケットマネーや政党交付金をそこに充てる必要はないのです。

にもかかわらず、障害があることでもってお二人に何か非があるかのように言い立てる人たちは、自分が何を言っているのか理解できていないんじゃないか、日本が民主主義の法治国家であることをまったく理解していないとか、あるいは公私の別が十分についていない、良識や教養に乏しい人なのだろうと思うのですが、そういう人が思いのほか多いみたいで、しかも現職の政治家や名の知れた元政治家がそんな体たらくであることにすごく憤りを感じたので、この記事を書いてみました。

つまり、「批判する人たちの言い分はまったくもって筋違いで、ご自身の醜い心と愚かさを顧みるべきですよ」ということです。

第41回 セルフネグレクト

このところ仕事が忙しくて、ブログに触れることがまったくありませんでした。
自助グループにはかろうじて顔を出している程度の参加しかできず、あんまりよろしくない状態です。

そんな日々を送っているので、仕事を終えて自宅に帰って来ると完全に電池が切れて、少しのことでも動くのが億劫になります。

というと仕事を頑張っているみたいですが、そんなでもありません。疲れ切って日々を送っているので、ぜんぜん効率的な動きができないのです。なにをするに付けてもやたら手間取るし、勘違いも多いし、とても効率が悪くなって、それを長時間労働で補って、みたいな悪循環が起こっています。

ところでそんなことを書こうとしたわけじゃなくて、タイトルの通りセルフネグレクトってのをしてるなと思ったのでそれを書いてみます。

わたしは、傍目にはすごくきちんとした人らしいのですが、ものすごく部屋が汚いです。ぜんぜん掃除ができません。エネルギーが無いんです。もう何年も。

出来ていたこともあったんですが、出来ない状態がもう十年以上続いています。引っ越すとか、よほどのことがないと、エネルギーが掃除に向かいません。だから部屋の中がゴミためみたいになっています。そんなふうに、自分の身の回りの世話が出来ない状態を、セルフネグレクトと言うそうです。

まさしく、わたしが子供の頃にされていたのはネグレクトでした。小学校に上がる前に一人部屋をあたえられたものの、掃除とかもまったくしてくれなかったし、そもそも家中が汚くて、わたしも掃除するとかいうことを教えてもらっていなかったし、使っていた布団も綿がつぶれたもので、しかも毎晩姉たちにいじめられて泣かされたわたしの涙で湿気ていながら、外に干されることも無かったし、布団を干すなんて事は小さくて知らなかったし、あるいは伸長や体力が無くて布団を運んだり物干しに干すなんて事は困難だったわけで、結果的にほこりが2センチも積もった部屋で湿気てカビが生えそうな布団のなかで何年間も生活していたわけです。そういうのと似たような状態で今も暮らしています。

部屋は心の鏡、みたいなことを言われることもありますが、実際わたしの頭の中はつまらないゴシップに反応して、まったく興味がない、読んで十秒後には忘れるような芸能ネタばかりを延々読み続けたりしてしまって、それで頭も心も疲れるし時間も費やされています。でもいっぽうで、まともな本を読むと感心するし、楽しいのだけれども、そっちに自分の時間とエネルギーを注げず、部屋同様、頭の中もとっちらかった状態に、自らしてしてまっています。

ジャンクフードばっかり食べた摂食障害の状態と似ている、精神的なジャンクフードばっかり食べているなと、以前から思っていたのだけれども、それはたぶんネグレクトされて育った影響からいまだ抜け出せていないからなのかもしれないな、と思っているところです。

それでもエネルギーがもっとあったときはむりやり自分を動かして掃除できてたんだけど、年齢的にだんだんと衰えて若いときよりもエネルギーは減っていることもあるし、完治させられなかった古傷が痛み続けていて歳とともにだんだん痛みが増してきてそれに負けちゃう、みたいな感じで、とっ散らかった部屋と精神なんてので、セルフネグレクトをしちゃっている自分を、認めて見つめて、言葉にしてみた次第です。

欠点を認め、受け入れ、手離して、変われますように。

第40回 ACとして「まとも」に生きるとは?

このブログで何回か書いてることですが、世間から見て「おかしい」とされるACの特徴は「知らないことだからできない」とか「環境に適応した学習の結果」であったりします。それは病気とは違って、人として正常な成長の結果で、むしろ道理にはかなっていて、ぜんぜんおかしくなんかありません。

逆に、ACとして育ち、思いやりをほとんど掛けられたことがないのに思いやりをやたら知って使えていたら、その子は先天的な天才というか、異常な子で、本当に「おかしい」のはむしろそんな子どもでしょう。それは日曜洋画劇場で字幕付き洋画を観ただけで英語がネイティブ並みにしゃべれるようになり、そのいっぽうで四六時中聞いている日本語はろくにしゃべれないままの子ども、というのと同じような異常さです。そんなことは普通に考えて、まずあり得ません。自然の摂理に反しています。

ACの性格特徴についてはどうしても目の敵のように考えてしまうのですが、それはわたし自身を生き延びさせてきた能力だということは事実で、そのことを否定すると、それは結局自分が生きてきたことを否定することになるわけで、自分が傷つくことになるのです。それは自分の右手を左手で殴っているみたいなことです。

 というわけで、私がACであることは自然の摂理にかなったことで、さらにいうと私は自分が摂食障害になったのも「普通のこと」だと思っています。

私が普通の人だから、人間的な反応として、摂食障害になったのです。

ストレスを発散する手段を持たず、感情の抑圧もかなり強い(通常不随意反応とされる、不意に「わっ!」と背後から声を掛けられたときにビクンとするような反応も完全に押し殺せたくらい)私という人間が、このかなり強力な感情の抑圧でも完全には支配できない領域である「食べる」という、生物が生命を維持するための根源的な行為を通して、外的なストレスという、大げさにいうと生存への脅威に応じようとするのは、生物の防衛本能として極めてまっとうな反応だと、そんなふうに考えていましたし、現在もそれは変わりません。

手短に言うと、過食という行動は、生き物として、ストレスへのもっとも根源的な反応だと理解していたのです。だから、わたしにとっては、全然おかしなことじゃありませんでした。それすら出来なかったら、なおのこと苦しんだことでしょう。全くストレスを発散できなくなるのですから、精神がすっかり崩壊していたかもしれません。

また、回復して「普通になる」というのも、誤解を生む考えだと思います。

自身と社会とで折り合いが付くような生き方を獲得する、という面では「普通になる」ということかもしれませんが、いわゆる「普通の人」とはそのプロセスが変わってくるので、回復したことについて注釈なしで「普通になった」と表現してしまうのは、誤解を生みます。
それは大人になってから英語を勉強しはじめて、英語での生活に困らなくなったら「ネイティブになった」といってしまうのと同じ間違いです。大人になってから英語を勉強したら、いくら上達しても「ネイティブ」にはなりません。それは生まれ育った状態を指す言葉だからです。ACが「普通になる」というのも、そういう意味合いで間違いです。変えられない過去までが変わるわけじゃないのです。どれだけ回復して、AC的な特徴があらわれなくなったとしても、ACでなくなることはないのです。また「回復して普通になる」という考え方は、ACの回復を妨げることにもつながると思うのです。つまり、表面的な言動をいわゆる「普通の人」に合わせることが回復なのだ、というような安直で誤った理解に結びつきやすいのです。

当たり前なのですが、会社員として働いていて結婚して子どもがいて家を建ててローンを払っているからACではない、ということにはなりません。でもACはそんなふうに考えやすいのです。

私自身についていうと、現在だけを見るといわゆる「ただ普通の人」 みたいな反応なり、考え方をしている部分も少なくないと思いますが、「ただ普通の人」っぽく見えているだけで、そういう人間に至ったプロセスは全く異なります。また実際に異なる部分も本当は少なくありません。

そもそも私自身は「普通」になろうとして回復してきたわけではありません。「思いやり」や「愛情」に基づいた生き方ができるようになりたくて、回復に努めてきたのです。そして、そういうのが分かるようになってきているし、人付き合いでも思いやりや信頼を基本に人間関係を築いている、という実感があります。でもそれは「普通」になったわけではありません。これは私固有の生き方なのです。

私は、大人になってから、「思いやりや気遣いを人間関係の基本として」生きることができるようになった人であっても、その情緒的発達段階を追えば、明らかに「普通の人」ではありません。死ぬことばかり考えた子ども時代を生きた人であることに変わりはなくて、それは「普通の人」の範疇からは外れます。

ただ、まともな人、にはなりたいと思ってましたし今もそれは変わりません。

「普通の人」と「まともな人」を意識して区別する人はあまりいないかもしれませんが、かなり違うと思っています。普通の人は、よくいる人、というくらいの意味で理解しています。すごく意地悪な人だって陰口やうわさ話が好きな人、浮気する人だって、普通の人です。金銭や社会的な地位や名誉を人間関係の基本にする人だって、よくいる普通の人です。私は、手間暇かけて回復してそういう人になりたいとは思いません。

私がそうありたいと思う「まともな人」というのは、情況判断とかが理性的、つまり社会的なことや相手の心情を踏まえた言動のできる人です。そしてそれは、「ネイティブ」とか「普通の人」みたいに生まれ育った環境だけで決まることではありません。

さて、私の理解では、ACから回復するということは、ACの特徴を持って生きていることを否定することではありません。むしろその反対で、自分や自分の過去を受け入れて、自分をよく知ったうえで、自分にとってより生きやすくおだやかな感情でいられる生き方を選択する方法を獲得していく、そうやって新しい自分がACとしての自分からバトンを受け取ることなのです。

回復のプロセスを通じて、ACのことも、ACでない人のことも以前に比べてだいぶ理解するようになりました。だからACでない人とのコミュニケーションでも、ACとのコミュニケーションでも、あまり困りません。バイリンガルみたいなもんです。この二者はかなり違う文化で生きているのです。

そのため、回復のプロセスには、自分と他人を理解しようと継続的に努力する、という要素がとても強くありますが、それは、それこそが自分と自分以外の人を受け入れ愛するということの実践で、回復の要だからなのです。

第39回 感情はいつもすぐ隣にあった

自分の気持ちが分からない(そもそも十分に感情が発達分化していなかった)、認められない状態が長く続いてその影響下で生きてきたわけですが、回復するにつれていくつもの自分の感情と出会いました。

そして、自分の感情と出会ったとき毎回思うのは「なんだ、すぐ隣にあったじゃないか」ということです。感情というのは、遠くに探しに行ったり、突飛なことをして見いだすものではありませんでした。気持ちを落ち着けて、感情に気付く感覚を身に付け、その結果、常に自分と共にあった感情に気付けるようになっていくものでした。

例えるなら、自分の感情を探し求めるというのは、頭にメガネを乗せていながら「メガネ、メガネ、メガネはどこだ・・・」と探しているような状態だったというわけです。

考えてみれば当たり前のことで、だって自分の感情なんですから、自分の意識のすぐ近くあるに決まってるのです。

分かってしまえば「なんだ、こんな近くにずっとあったじゃないか」と思えるのですが、そうやって気づけるようになるのは、簡単じゃありませんでした。できるようになったり、分かるようになってしまえば、なんてことないけど、できるようになるまではできない、わからないことって、けっこうあるじゃないですか? 逆上がりとか、自転車に乗るとか、三平方の定理とか、その他もろもろ。そんな感じです。

ただ、分かってからもその感情に馴染むまでには時間がかかります。取り扱う感情が増えるって、けっこう大変なことです。最初は違和感があるし、見つけた感情があることを当たり前に感じるには、1年くらいかかってきました。意識の中に感情の居場所ができて、自然と表現できるようになったり、他の感情や意識と連動して馴染むには、それくらいかかっています。

また、見つけた感情と折り合いを付けられるようになる、というのはまた別問題として取り組む必要がありますが、これは特にACに限った話ではないことでしょう。感情の赴くままに生きていられるわけじゃないですからね。

感情を見つけるのは、夜にジョギングしている時が多かったです。というか、ほぼいつもそうでした。月明かり程度の明るさの中、川沿いのサイクリングロードを1人で走っていて、唐突に気付くわけです。「あ、あった」とか「あ、これが楽しむって感情だったのか」とかいう具合に(きっと、単調で軽い有酸素運動っていうのが、脳の活性にも効いているからなんでしょう、そのほかにも考え事とか悩み事とかストレスだとか、いろいろなことが、夜のジョギング中に片付いています)。

心の混乱をできるだけ片付けて、落ち着けて、自分の心の小さな声を聞き分けられるようになることが、感情に気付くポイントです。それは心の中に嵐を起こしていたトラウマを片付けて静けさを身に付けるにつれ、容易に聞き取れるようになって、いつのまにか苦も無く当たり前のこととしてできるようになっていたりします。

でも、忘れないようにしているのは、これはわたしにとってまったく当たり前ではなく、意識的で持続的なトレーニングで身に付けた能力であって、注意していないとまた失われる、あるいは後退するものだということです。

いっぽうで、これまで続けてきたように、回復を続けていけば、より自分の心と仲良く、人の心にも配慮でき、思いやりや愛情に基づく生き方ができるようになっていくわけでしょうから、こつこつミーティングに出たり、目新しい感情の変化や回復・成長について気付いたことをノートに書いたりして、回復・成長の機会を自分に設けているわけです。