本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

番外編 重度障害者国会議員への批判について

先の選挙で、れいわ新撰組から立候補していた重度障害者のお二人が当選しました。

そしてお二人は、介助がなければ議員活動ができないので必要な補助を認めるよう国に求めました。

この二人の主張に対して、現職の政治家からのものも含め多くの批判が発信されています。

「政治資金もでるし、高給取りになるんだから、ポケットマネーで払え」とか「特別な介助が必要とはけしからん」とかおおっぴらに言う人がいるわけです。

けれど日本では、参議院議員の被選挙権の条件に「日本国民で満30歳以上であること。」ということを掲げていて、お二人はこれに合致しています。であれば、正当な手続きを経て国会議員になったのですから、お二人を受け入れ活躍できるように国会が人なり設備なり制度を整備する、つまり、インフラを整える努力義務があります。

その点、今回国会はお二人を受け入れるために今のところこの努力義務を果たしている様子で、当たり前のことだと思った次第です。

さて、この民主主義国家日本の制度では当然なされるべき配慮を批判する人の言い分のおかしさについて、ちょっと考えてみます。

批判する人たちは、「重度障害者が国会で活動するために必要なインフラは自前で用意しろ」と言っているわけです。なんでかというと「自分には必要ないし、これまで国会議員になった人にも必要なかったインフラだから」いうのがその論拠のようです。実際には、いろいろ違った言い方をしていますが、最終的な言い分はここに着地します。なにしろ、もし以前から十分にインフラが整えられていれば、今回お二人がこのような意見を言う必要もなくスムーズに登院していたでしょうし、今回のように批判がわらわらと湧き起こることもなかったはずだからです。

批判する人たちの理屈でいくと、「俺が行かない県に俺の税金を使って道路を作るな、だって俺は使わないし必要ないから」とか「点字ブロックなんて要らない。俺は使わないし、ほとんどの人にも必要ないだろう。必要な人が自分のポケットマネーを使って整備すればいいだろう」とかいう主張も、出てきます。

この主張の原理は、ものすごく利己的・排他的で民主主義社会とは相容れない考えです。極論すると、彼らの思想信条とは「自分を利する人や物以外は必要ない」と、ただそれだけだからです。まったく思いやりがありません。

それだけでなく、「みんなで支え合って生きる」という、民主主義というか、それ以前の、集団生活をする人間としての基本的な理念とも相容れないような考え方です。

ちょっと話しが大きくなってしまいましたが、れいわ新撰組のお二人が「自分たちが国会議員として働けるようにして欲しい」と求めているのは、それまで「条件を満たし正当な手続きを経れば誰でも国会議員になれる」と約束していながら実際には長年それが実現できない状態であった国会の制度や設備上の不備を明らかにしているだけなので、お二人にまったく非がないのです。ですから、高給取りであろうがなかろうが、ポケットマネーや政党交付金をそこに充てる必要はないのです。

にもかかわらず、障害があることでもってお二人に何か非があるかのように言い立てる人たちは、自分が何を言っているのか理解できていないんじゃないか、日本が民主主義の法治国家であることをまったく理解していないとか、あるいは公私の別が十分についていない、良識や教養に乏しい人なのだろうと思うのですが、そういう人が思いのほか多いみたいで、しかも現職の政治家や名の知れた元政治家がそんな体たらくであることにすごく憤りを感じたので、この記事を書いてみました。

つまり、「批判する人たちの言い分はまったくもって筋違いで、ご自身の醜い心と愚かさを顧みるべきですよ」ということです。