本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第38回 やりたいことをやりたくないことよりやれない

前回の内容と通じる話ですが、タイトルの通り、私、やりたいことをやりたくないことよりやれませんでした。そして、今もけっこうそのことで苦労しています。

例えば、まず、やりたいことを思い描くのが難しかったです。子供の頃はそうでもなかったのですが、18歳で人生に参ってしまって以降、トラウマ全開になってからは、罪悪感の強さや自尊心の低さがとにかく強かったのです。それで、自分が何かを望もうとすると「無駄だ、意味が無い、くだらない」というトラウマの大合唱が脳内で発生して参ってしまうのです。だから心情的には、何も望まないで生きている方が楽でした。でも何も望まないで生きる、ということは無理なので、トラウマとの戦いに明け暮れていたわけです。とにかく、ちょっとでも「個人的な願望」なんて感情が生じると、同時にトラウマとの葛藤が始まって、ものすごく疲れました。実際には一ミリも動かなくても、脳内バトルで疲れて身動きが取れなくなってしまうほどでした。

そんな感じで、やりたいことを認めるのがものすごく困難でした。自分の心を声を少しでも聞き取ろうとすると同時にトラウマが自分を攻撃し始めるので疲れてしまうわけです。まあ、トラウマも願望もどちらも自分の心なんですが、自分が自分の敵になっているわけです。

本当にこれ、げんなりします。

実のところ、わたしはやりたいことに全力で取り組んで熱中できる人になりたくて、そういう人にずっと憧れてます。また、そうなろうとかなりながいこともがいてきましたが、残念ながら、なれていません。

自分の願望に従って動くことを妨げる心の働きは、上に書いたトラウマの大合唱だけではありません。自分の願望を無視する癖や、面倒くさく感じるというのも、ものすごく強いです。さらに、なんとか楽しんでみても、それには常に強い罪悪感がつきまとう、倦怠感が酷い、ということでも苦しみました。例えばなんとかトラウマの大合唱を乗り越えて、自分の望むことをやろうとすると、今度はすごくおっくうでおっくうで仕方がないんです。また、おっくうとか思う以前に、何かをやろうとすると、途端に忘れる、ということもあります。例えば、パソコンで何か作業をしようと思って立ち上げると、絶対まったく関係ない、どうでもいいネットサーフィンをさんざやって、目が痛くなって疲れてもうパソコンを辞めたくなった時になって漸く自分がなんのためにパソコンを立ち上げたのかを思い出したり、あるいは最後まで思い出せずパソコンをシャットダウンした途端に思い出したり、ということも本当に頻繁にありましたし、今もあります。とりわけやりたいわけじゃない、仕事をする時にはあんなに熱心なのにね、と我が身のことながら思います。

こういうのは、世間一般で理解されている、「やりたいことをやると人は楽しめる」という心働きとは真逆です。

こうした心の働きについて、あるACの回復に関する本で、「ACは物事を楽しむのが下手」という具合に説明されているのを読んだことがあります。これは、間違ってはいませんが、ただこの表現は私からすると結構上から目線でACを観ているような意見だと感じます。少なくともACと同じ目線に立ってはいないように感じます。

ACの場合、楽しむのが下手とか上手いとか以前に、だいたい常に「何事であれ楽しむのが困難な精神状態にある」というのをまず想定して欲しいものですし、その方が実際のACの心理に即しているはずです。私の場合、否定の声、忘却、罪悪感、無気力といったトラウマとの戦いがこれに当たります。

こういう精神状態を、ACでない人にも伝わるように例えてみますと、腹痛に見舞われて1秒でも早くトイレへ駆け込みたいときに、なんであれものごとを楽しむなんてことは、99%の人はできないでしょう。あるいは、虫歯が猛烈に痛む時にあなたは物事を楽しめるでしょうか?

もっと生々しい例えを挙げると、生爪を剥がされて血がダラダラ出ている時に、痛みをこらえる以外のことにあなたは意識を向けることができるでしょうか?

大事な受験なり、大勢の人前に立つめったにない機会を目前に控えて、あなたはくつろいで何かを楽しむことができるでしょうか? ほとんどの人にはできないでしょう。

ようするに、痛みや恐怖を感じていたり、何か切迫した状態では、普通、人はものごとを楽しめません。

そしてACは、心理的なり肉体的に恐怖や痛みや切迫した状態を強いられて育っていることが多いのです。

ようするに、ACって常に気を張って生きてて、戦闘モードなのです。

それが、ACが「サバイバー」と表現される由縁ですね。

「じゃあ、リラックスすれば良いじゃん。くつろげるところに行くなり、するなりすれば」と、きっと普通の人は思うんですよ。

以前にも書きましたが、私が「リラックスする」ことを覚えたのは、瞑想をするようになってからですし、くつろげる(心理的に余裕を持って、かつリラックスしている状態)ようになったのは、回復に取り組むようになってから17年後の昨年になってからです。

詳しくは別の回で書いてある通りですが、緊張し続けて生きてきたので、緊張していない状態でいることができないのです。そもそも人格の要素に、「リラックスしている」とか「くつろいでいる」状態がないのです。

(そういう要素を心に持たないで生きているということは、たぶんそうでない人には理解が難しいと思います。あなたが五体満足であれば、たぶん片手や片足がなく生きるということを、正確に想像するのは難しいでしょう。でも物心ついた頃から片手や片足がない場合、その人にとってはそういう状態は日常で、逆に、両腕や両足がある状態で生きていることが、なかなか想像できないでしょう。要するに、理解して歩み寄るには意識的な努力がけっこう必要な、かなり違う世界に住んでいるのです。

私はACですが、ACでない人の心理を理解するのにかなり苦労しました。それがあまりにも普通と思われていることで、いちいちだれも説明してくれないし、そもそも言語化されていなかったり、大人になってから学ぶ機会が少ない情操について、習得のプロセスを自分で考えたり、意識して何年も継続的な訓練を行う必要があったからです。)

以前、ものごとを楽しむ、ということを身に付けたくて、努力してものごとを楽しもうと務めていたことがあります。でもうまくいかきませんでした。今思えば、それは、楽しむ以前に自分の心の怪我に目を向け、対処する必要があったためだからだと思います。無理に楽しもうとなんてしなくてよかったのでしょう。まず、私を苦しめている痛みに目を向け、必要な対処をして痛みを軽減させなくちゃならなかったわけです。回復には順序があるっていうことですね。

 

追記

やりたいことをやっている時に生じる「呪い」には、もう一つ「自己破壊衝動」的なものがありました。自分がやることなすこと「失敗するはずだ、駄目になるはずだ、うまく行くはずない」という強い思い込みが生じて、自分のやる気を削ぐし、失敗を誘発するのです。こんなふうに「呪い」が何重にもかかっていたし、その名残に今も苦しんでいるのです。