本人目線の、アダルトチルドレンの成長と回復 How did I recover from adult children scientifically

AC(アダルトチルドレン)の私が、自助グループで話しているようなこと(そのまま同じじゃないです)を、お伝えします。

第24回 白黒思考

今回は、ACの性格的な特徴としてよく挙げられる白黒思考について話します。原因はいくつかあると思います。

まずは、強い感情に慣れていることです。恐れとか、怒りとか、そういう強い感情に慣れていて、ささやかな感情に疎い。第11回で、「濃い味付けに慣れている人がなんにでも醤油を掛けてしまうように」というようなことを書きましたが、同様に、強い感情に慣れているために、その強い感情が感じられるところまで物事を極端に推し進めてしまうのです。結果的にこれは、他の人から見ると極端だったりするわけです。「あんなにドバドバ醤油かけたら、普通しょっぱくて食べられないでしょ」みたいな事になってしまう。

次に挙げられるのが、自分の感情を否定するトラウマがあって、それに打ち勝って自分の感情を認めなくてはいけないので、一つ一つの感情が力んだものになってしまい、結果的に白黒思考的な行動として現れる、というものです。

「楽しい」という感情を否定されて育った場合(私ですが)、「否定するトラウマ」に打ち勝って、楽しいっていう感情を認める必要があります。そういうときには、まず、トラウマに打ち勝つだけのエネルギーが必要です。その後にしか、「楽しい」という感情を認められないからです。たとえば「ちょっと楽しい」という感情を認めるのに必要なエネルギーが2であったとしても、トラウマを乗り越えるのには100のエネルギーが必要だったりします。100以上のエネルギーを使ってようやく、エネルギーが2だけ必要な「ちょっと楽しい」という感情にたどり着くために、端から見ると「やたら意気込んで楽しんでるな」ということになるわけです。別の例えを使うと、普通の人が何も持たずにすたすた歩いてたどり着ける感情に、30㎏の「トラウマ」という荷物を背負って歩かざるを得ない、ということでもあります。当人としてはすごく意気込まないとならないので、考え方もそれに合わせて極端になってしまうのです。

そして最後に、感情が未分化、ということが原因になっていることもあると思います。たとえば物事が「好き」であるといっても、そこには、「寝食忘れるくらい好き」から「ひまつぶしとしては好き」というような、幅広い程度があります。また、すごく好きだった物が好きでなくなったり、そんなに好きでなかったものが好きになったり、嫌いだったものが好きになったり、変化もあります。私自身はそういうのがあんまり区別できませんでした。

あまり身近でない感情については、まだ感情が分化していなくて、おおざっぱにしかわからないので、白黒思考的になってしまう、ということです。

たとえば、赤ん坊は自分の感情を表現するのに、快・不快だけで表します。これが感情が未分化だということです。少しずつ感情を発達させていって、嬉しい、楽しい、苦しい、辛い、好き、嫌い、といった区別が付くようになります。そしてさらに、それぞれの感情にもいろいろな程度があって、あるいは「苦しい」と「楽しい」がことによっては一緒に生じたりする、ということが分かるようになるわけです。そういう感情の機微は、感情を使って、受け容れて、成長しないとわからないものです。つまり一定量の経験値が不可欠なものですし、その上、感情が発達しやすい時期を逃してしまうと、その後に発達させるのはなかなか難しいところでもあります。

あとで感情を学ぶ、ということは大人になってから英語を学ぶことの難しさと似た難しさがあります。自然にはなかなか身につかず、文法を学ぶようにかなり自覚的にならないといけませんし、習得にも時間と根気が必要になります。

そういう成長・発達を経ていない場合、赤ん坊とまではいかないにせよ、感情は白黒思考的なものになります。そして、感情が十分に発達していないということは、周りの人の感情もあまり理解したり考慮できないわけですから、これは、端から見ると「子どもっぽい我がまま」に見えたりするわけです。

あとは、極端な自尊心の低さから生じる自己破壊衝動が、「白黒思考」的な思考や行動へと向かうアクセルになることもあります。たとえば「私なんか消えた方が良いんだ」って思いに囚われて自傷するとか。

さらには、「自分は何も達成できない」というネガティブで強いセルフイメージを植え付けられている場合には、このセルフイメージを守るため(あるいは葛藤して打ち勝とうとしたものの結局このセルフイメージから逃れられなかった場合)、出来もしない高い目標を掲げて失敗し「やっぱり自分はなにも達成できないんだ」という、セルフイメージを強化する結論に至るような場合にも、一時は極端な努力をしたりするので、やはり傍目には「白黒思考」的な言動となります。

「白黒思考」という一言で括られしまっていますが、ACの「感情的に極端な方向へ行きたがる」という特徴は、実際にはこうした要因が絡み合って生じているものだと私は考えています。

じゃあどうやって対処すれば良いのかというと、いつもと同じになってしまうのですが、ミーティングに参加したり、自分の言動を振り返って書き出したり、瞑想をすることが基本になります。自分が白黒思考に陥っている、ということを自覚して、それを手離して違う行動や心情を選択するわけですが、内省の能力が育っていないとこれはできません。

またそれにくわえて、「白黒思考」になる一因に、情操教育が足りてないこともあるわけですから、好き嫌いだけではなく、時代を超えて一般的に優れているとされているいろいろな本や小説を読んだり、音楽を聴いたり、美術館に行ったりして、情操教育(あるいは教養教育)を自分に施すことは一定の効果があると思います。というか、私自身はそんなふうに対処してきました。

第23回 回復に時間がかかるわけ

回復には時間と根気が必要です。

地盤沈下した住宅を引き上げて手入れをして快適に住めるようにするには、もしかしたらスコップのひと掻きから始まるかもしれませんが、そういう地ならしみたいなのから始めるしかなくて、時間がかかって手間もかかって疲れるし根気もいるし、嫌になることも何度もありますが、でも着実に進んでいる、成長していると自覚できる変化は、注意深くしていれば見いだせますし、もしくは他人の方が本人よりも早くその人の成長を見いだすこともあるのですが、そういうのを励みに継続していくわけです。ともかく、時間は掛かろうがなんだ路が、やり続けていればいずれはきちんと地盤調整は終えられるし、これを終えればジャッキアップの下地ができるわけで、柱の補強が終わっていれば、ジャッキアップの段階に入れるわけです。

そんなわけで、また欠陥住宅への対処に例えてご紹介しましたが、根本的に「病的な考え方、世界の見方が変わったな」と思えるだけの変化が起こるまでにはどうしても時間と手間がかかります。それは、土台作りが大変だからです。自分の人力で、長年積み上げてきた生き方の土台の形を変えていくのですから、当たり前ながらたいへんだし、心の中の変化で目には見えないものですから途中経過は自覚しづらいです。

でもいったん固くしまった土台ができれば、あとは成長するのみですから、といってもこれもゆっくりではあるのですが、かなりはっきりと自分の変化が感じられるはずなのです。

最初の、地味にただただ回復のための努力をやり続ける段階は、なかなか大きな変化が感じられないし、辛いばかりです。でも、段取りを追ってやっていけば、とにかく進むのです。それが回復のための12ステップってやつです。

私なりの、12ステップの解釈は「人格を作り直すための作業」というものなのですが、今週は週末に記事を書く時間が取れないので手短な内容にしましたが、詳しくはまたあとの記事でご紹介します。

第22回 落ち込んでない状態に慣れる

このブログの第9回で「気分転換は難しい」、第20回では「回復したくない気持ち」というのを書いてますが、それとも関連するテーマです。

わたしにとって「落ち込んでいない状態に慣れる」ってのは、結構難しい課題でした。

幼い時から「死にたい」と思っていた私の精神状態には、落ち込んでない状態というのがなくて、どうやっても「落ち込んだ気持ち」になろうとしました。

「落ち込んでいる」というのが通常だったので、そうでない状態になろうとすると、反動が起きるのです。ダイエットのリバウンドみたいなもんです。ちょっとでも嬉しかったり、昂揚したりすると、なにかしらで自分を責めてみたり、罪悪感があったり、「くだらない」と感情を押し込めたりして、またすぐ慣れ親しんだ「落ち込んだ気持ち」に自分を追い込みます。やっているそのときは楽しい、ということをする時間を増やしてみても解決しませんでした。自分を落ち込ませようとする反動が強く起きただけです。

落ち込んだ気持ちには、すごく安心感を感じました。全然安心すべきところではないのですが、それが慣れているって事なんですね。慣れって恐ろしいですね。

この課題には、長年意識して付き合ってきています。

そうなんです、回復の課題というのはいろいろな種類があって、集中して一気に取り組むこともあれば(私の場合摂食障害の状態があるていど寛解するまでは、これに集中して取り組みました)、これみたいに問題として認識してから何年も掛けてちょっとずつ取り組む課題(たぶん10年近く取り組んでます)というのもままあります。

最初は、こういう気長に取り組む課題というのがあるのも分からなかったし、集中して取り組んだ方がいい問題とのアプローチの仕方の違いも分からず、一気に集中して取り組んで片付けようとしていたのですが、ただどうやっても上手くいかないので、自然ととりあえず放置されることになって、それでときどき思い出しては状況を把握して、成長に気付いたり、あるいは改めて現在の課題として取り組んでみる、というような今のスタイルになったものです。

ここで言っている「落ち込んでいる状態」というのは、そのときどきの気分というのではなく、気分の基本的な状態がどうなっているかということで、「気分の通奏低音」と私は名付けていました。

これは、表面上の感情はいろいろ波立って動いて移り変わるのですが、その下に横たわっていて常に私と共にある基本的な感情、という感覚です。そういえば、「死にたい」って気持ちもその一つでしたね。川沿いの土地をちょっと掘ると水が湧いてくるみたいに、ちょっと気分が落ち込むとすぐにジャブジャブ湧いて出てくる感情でした。地下水脈みたいですね。

あと、前回使った住宅の例えでいうとこれは、地盤の状態、になります。私は常に地盤沈下した状態(しかもその地盤は緩い)だったので、それを、ちょっとずつ上げていこうとしてきたのです。

(地下水脈だったり地盤だったり、なんか例えが混乱しているようですが、感情の比喩ですんで、どうしても一つでは足りないんです。すみません)

家みたいな建築物を地盤から持ち上げるには、建物の基礎の下に穴を掘って、土台を作って固めてから、あちこちの柱周りにいくつもジャッキを当てたりして、一センチずつ慎重に、家がゆがんだり傾いたりしないようにバランスを見ながら徐々に上げていくと思うんですが、そんな感じで、自分の問題をあちこち掘り下げて、補強したりなんだりしながら、少しずつ手を付けるしかない課題だったわけです。

それで、地盤を掘って土台を作って固める作業が、過去を思い出して書くことだったり、瞑想をすることだったり、自助グループに参加するといった、回復と成長のための作業で、これは同じような事を地道に繰り返す作業です。もう何度も何度も繰り返し書いてますけどね。

そうやって、今では感情の基盤、通奏低音、地下水脈、あるいは地盤沈下の状態が、以前と比べるとすごくマシになって安定していて、自分の心の中に落ち着きを保つことが上手になっていますし、前よりは1mくらい地盤の高い状態が普通になっています。だから、ちょっと地面を掘っただけでは水が湧いてきません。いや、湧いてきませんとかいっても、なにかの拍子ですぐ湧いてきたりするかもしれないので、油断できないんですが(笑)

第21回 ACと依存症と欠陥住宅

ACの問題って複雑でどうやったらわかりやすく伝えられるんだろうと結構長く思っていたのですが、前回の記事を書いている時に「欠陥住宅」の例えがうまくはまることに気付きました。

正直、ACを欠陥住宅に例えるってのは、わたしにとってもそうですが、また私以外のACの人にとってもあまりいい気のするものではないでしょう。でも例えとしてすごく丁度良いので、使います。もう少しこの例えでもって、ACの抱えるありがちな問題を表していきます。なにしろ、すごく理解しやすいと思うからです。
ACの問題は心の中で起こることが大半なので、言葉で表現するにしてもどうしても個人の感覚的な物になってしまってイメージするのが難しいし、個人の感覚じゃないもので伝えようとすると、脳生理学を踏まえた難しそうな話になってしまっていたのです。

緩い地盤の土地にいい加減な設計といい加減な工事で建てた欠陥住宅、だと、問題がイメージしやすいじゃないですか? 具体的に目に見えたり、数値で計れたりしますからね。傾きなり、歪みなり、雨漏りだったり、ひび割れだったり、漏電だったりね。

 さて、ACの問題としてよく挙げられることに依存症があります。依存症というのは明らかに精神のバランスを欠いていて、すごく偏った状態です。摂食障害やギャンブル、仕事、恋愛、なんでもいいですが、依存症になりやすいのが、ACです。

どうしてかというと、第1回の記事で書いとおり、アダルトチルドレンというのは「情緒的にすごく偏った環境で子ども時代を過ごした人」ですから、この病気と親和性が高いのです。

また、依存症者というのはいくつもの依存症を渡り歩いたり、重複して抱えていたりします。
それは、欠陥住宅でいえば、全体がゆがんでいる中で、そのときどきで負担が掛かっている場所の近くから不具合が出てくる、ということと比べられます。

前回の記事では、欠陥住宅の扉が閉じられなくなった状態を例に挙げました。扉を閉められるようにするには、ゆがんだ扉を交換するだけでは駄目で、柱や梁の補強(それも一本だけではなくて、何本も必要だったりする)、さらには地盤改良が必要かもしれません。
また、扉一つだけがゆがんで閉められなくなっている、というはずはありません。全体がゆがんでいる中で生じている問題だからです。他の扉も開閉しづらくなっているはずだし、壁にはヒビが入っているでしょう。床を歩くとギシギシ音が鳴るかもしれません。小さな地震でも大きく揺れるし、どこかから雨漏りしているかもしれません。浴室には湿気がこもってカビが生えやすかったりもします。そんなふうに、あちこち問題が生じるのです。扉を一個交換しているうちに、他の扉の歪みも大きくなって開け閉めできなくなってしまったり、そもそも建て付けがゆがんでいるので、問題の扉を外すことも困難でしょう。
こんなふうに、一つ扉を交換しようとしても、他の所に歪みが生じているため解決に至らないわけです。

依存症者が複数の依存症を渡り歩いたり、複数の依存症を抱えるというのも、そういうのと同様です。一つ依存症が片付いたと思っても次の依存症が出てしまうのは、心のひずみという原因が片付いていないからです。これはたとえば、幼少期のトラウマや、コミュニケーション能力の不足、感情の鈍麻、不健康な生活習慣などが複合して生じているのかもしれません。だから、表面上に表れている症状への対症療法を考えただけでは不十分だし、だいたいが対症療法でなんとかしようとしても失敗に終わります。

じゃあどうすれば良いのかということになります。
ゆがんだ家に生じた問題を片付けるには、こっちの柱に仮の補強を入れて支えている間に、そこの梁を太いものに取り替える、工事をするために周りの家財を他の場所へ移動する、とかいった、建物全体のバランスや作業性を考えた段取りが必要です。あるいは、ばらして使える部材だけを使って家を建て直す、といった大がかりな作業が必要かもしれません。これはケースバイケースだし、人にもよりけりで、どんな選択にせよ判断はとても難しいです。

時間も手間も掛けたくないという人は、問題はあってもぎりぎり家が潰れない程度にだけ補修するって手もあるかもしれません。しかしそもそも地盤がゆるかったら補強だけではどうにもできませんから、潰れない家にするには、選り好みとは関係なく、建て直す必要があるかもしれません。ちなみに私の場合は完全に後者でした。

では、実例としてわたし自身が摂食障害にどう対処したのかというと、まず要因を自覚しました。子供の頃からストレスにさらされて生きていて、我慢の限界を超えて鬱状態にあったときに、寮生活のストレスが加わって過食が始まったので、ストレス発散の方法を何か持つ必要があると思いました。それが身につくまで過食はでてしまうのという判断から、ストレスにさらされる機会を減らしました。大学生だったのですが、休学したし、単位数なんて気にせず、興味のある講義だけを取ったし、1人暮らしも始めました。バイトもほとんどしないようにしてました。ただし、エネルギーがない中で動かなくてはいけなかったので、行動に移すにはけっこう期間も掛かっています。そして、ストレス発散と健康維持のため、毎日運動をしました(これはもともとの趣味でもありました)。感情を自覚するために、日記に限らず何かにつけて気付いたことを書き付けていましたし、食事も、過食衝動時のむちゃ食い以外の通常の食事は、ほとんど決まりきったものを決まりきった量だけ食べていて、自分の食欲は当てにせず(空腹、満腹を知覚する機能が壊れていると自認していた)、何を食べようかなんて悩まないようにしていました。それ以外にも、音楽を聴いてみたり、瞑想をしたり、あれこれ試して、自分なりに、ストレス発散の方法を、むちゃ食い以外に変える、という目的に沿った行動をしていて、それがだんだんと功を奏して過食衝動は薄れていきました。

摂食障害がだいぶ沈静化してから、子ども時代のことを思いだして書くというかなりストレスの高い作業に取り組んだのですが、これは事前に過食の問題を片付けていなければきっと過食も悪化したでしょうから、結果的にですが、段取りのいい順で対処できたのじゃないかと思っています。この例ではうまいこといったっぽいのを挙げていますが、私の場合、実際のところなかなかこの順番はコントロールできないので、目の前にある問題に加えて、知識としてACにありがちな問題だと理解していることまで含めて、ぜんぶまるごといっぺんにして、とにかくむちゃくちゃ精一杯取り組む、ということを続けてきたので(これって、いわゆる「全てか、無か」ってAC的な行動ですね)、すごくエネルギーロスが多かったと思います。子ども時代のことを書き出した時は無理しすぎて健忘になってますしね。あと、ヘタに順序をコントロールしようとするよりは、そのとき目の前に表れた問題にだけできるだけのことをやっていた方が成長は早いんじゃないかというのが、実感です。人間には本来的に成長・回復していく順序というのがあって、それに逆らったり、順番を飛ばしたりしようとしても上手くいかないんだと思います。まあそういうことが分かってからも、なかなか出来なかったんですけどね。

ところで、精神科医など医療従事者がどう治療に向き合うべきかというについて私見を述べますと、たとえば、「この薬で症状を緩和している間に、こっちの問題に対処して・・・」というふうに、患者の話しをよく聞いて、状況をよく確認し、専門的な知識と技術と道具(薬とか)で、プロとしての責任を持った判断を下し、対処することが求められているわけです。私自身はほとんど医者にかかったことがないので、こういう判断を実際に医者がしているのかどうかはわかりませんが、本来、精神科医が求められているのはこういう難しい判断であることは確かです。

第20回 回復したくない気持ち

回復するのが億劫な気持ちというのはすごく強いです。

 

変わりたくない、という気持ちもすごく強く表れます。

 

私は毎朝、自助グループの本を数ページ読んでからその日を始めることを習慣にしていますが、身につくまでものすごく時間がかかりました。

 

毎朝、忘れるのです。枕元に置いて朝起き抜けに目に入るところに置いておいても、読むのを忘れます。一年か一年半か、もっとかもしれませんが、一般的にものごとが習慣になるには30日とか、あるいは運動習慣などの負担の大きな物になると3カ月近くかかるらしいですが、その数倍はかかっています。

 

そして、読んでも忘れます。ものすごく忘れます。

 

私はストレスで結構な健忘の症状が出ていたこともあったため、これは特に私だけのことかと思っていたら、そうではないみたいで、かなり熱心にミーティングに参加していた方からも同様の話を聞いたことがあります。

 

ちなみに、熱心にミーティングに通っているメンバーでも、そもそも文献を読む人は少数派で、その内容までおおむね把握している人(こんなことが書いてあった、とミーティングや、運営会議の場で話す人)となると、ごくごく小数です。

 

ある程度長くミーティングに通っていると、メンバーは何かの折に書籍を持つようになるもので、けっこう持っている人はいます。でも、ぜんぜん頭に入っていません。あるいは、必要な時に思い出せないのです。それは、読書家の人でも、読書家でない人でも、です。もっというと、毎回ミーティング冒頭に読まれるハンドブックの内容を意識している人も、さほどいません。これは本当に不思議なほどです。

 

こんなことを書いたり気にしているということはつまり、私自身、書籍に目を通していて、何事かの選択・決定の場面では、書籍の内容と照らして指針を検討するよう心がけているって事ですが、しかし読んでも内容はすぐに忘れてしまうので、それに抗うように繰り返し読んできました。

 

私は、朝に自助グループの本を読むようにして十年ほど経つと思いますが、いまでも「読むことを忘れてしまう」のを前提に、絶対に目に付くところに本を置くようにしています。それでも忙しい朝は、忘れます。「なんかやってないことあったなぁ」と感じて「そういえば」と、やっと思い出す、ということが今でもあるのです。

 

実際の所、これは回復の意欲と関係なく、ほとんど本能的に忘れるみたいです。

 

こうしたことは、私が思うに、「回復したくない気持ち」がすごく強く働いていることが主な要因なのだと思います。

 

ACは自尊心が低く依存的な性格であることも多く、なにがしかの依存症を患っている人も少なくありません。私も摂食障害だったことがありますし。

そして、依存症一般の症状として「否認」があります。否認というのは、例えばアルコールを浴びるように飲んでいる人が「自分はアル中じゃない、その気になればいつでも酒なんか止められる」と言い張ったり、ガリガリに痩せた人が「自分はまだひどく太っていて醜い」と信じ込んでいるなどの、現状を認められない言動や認識のことを指します。

これは依存症が人格に食い込む病であり、さまざまな認知の歪みが症状として生じるためで、まさに依存症が病気であるとされる由縁の部分なのですが、こういう認知の歪みはACの考え方とよく似ています。それは当たり前っちゃあ当たり前です。

ACのこの「認知の歪み」は、アルコール依存症者とかの依存症者と共に生活するなかで、依存症の特徴的な性格傾向を学習してしまったことが要因だったりするからです。そういう場合は、病気が伝染したとか、環境遺伝とも言えそうです。

 

そして、いったんできあがった人格というのは、病的であろうがなかろうが、生き延びようとします。人格というと大仰なので、「習慣」と言ってみましょう。とはいえ、習慣というのは人格の一部で別物じゃありません。でも習慣と人格は一般的には別物扱いされるので、そうではないということをまず説明します。

 

習慣には小さなものから大きなものまであって、わかりやすいように大きな習慣を例に挙げると、毎日八時間トレーニングするのが習慣の人はプロのアスリートだったりして、それは習慣だけれども仕事であって同時に生き方だったりもしますが、人格の体現でもあるわけです。というわけで、大なり小なりはあれど、習慣は人格の一部なのです。

 

わざわざこんな説明を加えたのは、私の感覚的にACとしての習慣は「人格の一部」と感じているためです。なにしろACとしての習慣は、良くも悪くも環境に適応して生き延びるために精一杯がんばって身に付けたものですから、ものすごく根深くて、たとえそれが役立たなくなっていても、変わりづらく、習慣、と表現するのに相応しくないと感じるし、かといって「人格」というと、全人格的であるような印象が強くなってしまいます。ようは、人格の一部であるって言いたいのです。ただし人格の一部といっても、ものによってはトラウマ(心的外傷)として人格全体に広範に影響を及ぼしていたりもします。

 

分かりづらくなってしまったので、少し別の角度から説明をします。

 

回復の第一歩として「自分の問題を認める」ということが言われますが、まずその一歩からとても難しいのは、否認の病気である依存症者の影響を受けて育ったからであったり、また同時に、生育環境以外の社会では問題の原因となる習慣が幼少期を生き延びるため必死で身に付けたいわば「必須の生存スキル」であって、安易に手離すことはできないという理屈でどうこうできないくらい深く生存本能に結びついた意志が影響していたり、あるいは、よその世界を知らず、自分がこれまでしてきた生き方以外の生き方を知らない(比較対象がないので問題が見えない)とか、そういうことがぜんぶ関係して「問題を認める」ことの困難さが生じていたりするわけです。

 

こんなふうに、回復に向き合おうとするときに立ちはだかる壁が、問題一つでできているということはほとんど無くて、いくつもの要因がしっかりと絡まっていて、強固に作られた生き方や考え方の習慣として人格に深く根付いているのです。トラウマ体験だったり、家庭内で身に付けた習慣なりは、単独でも強い影響力を人に対して持っているのですが、表面的な影響の出方として重なる部分も多く、そういった場合には幾重にも絡まって単独よりもなお強固な壁になって立ちはだかって、自分が変わることを困難にするのです。

人間の人格がそもそも、様々な経験が絡まってできているもので、ACの人格ももちろんそのようにできあがっているわけです。だから、「交通事故に遭った。だから運転が怖い」みたいな単独のトラウマ体験と違って、問題と原因が一対一になっておらず、ひどく複雑です。

 

まだいまいち分かりづらいので、例え話をします。

 

軟弱な地盤にいい加減な設計と手抜き工事で建てられた家を想像してみてください。この家は立て付けが悪く、ドアがゆがんでいてきちんと閉められないのですが、これを解決するにはどうすれば良いでしょう?

ドアを取り替えても、家全体がゆがんでいるのですぐにまたドアはゆがんで閉められなくなってしまいます。「それでは」と、ゆがんでいる家の柱を補強しても、地盤が緩いのでやはり家はゆがんでしまい、ドアはまた閉められなくなります。

「ドアを閉められない」という一つの問題を生じさせているのは、地盤の緩さと、作りの悪い家の歪みの両方で、どっちかだけを手当てしても問題は解決しません。しかし、どこかから手当てしなければ、壁のヒビが増えたり、床が傾いたり、雨漏りが生じたり、やがて天井裏が腐ったりと、問題はどんどん大きくなって、ちょっとした地震で潰れるようなことになってしまうかもしれません。

 

さらに、「柱が細くて十分な強度がない」とか、「屋根の防水がしっかりされていないから雨漏りしている」というときだって、いきなり柱を切って太い柱を入れ直したり、屋根をぜんぶはがして防水工事をするっていうことはできませんよね。不十分な柱でも、なんの準備もなし取り外したら家が潰れちゃうかもしれないし、屋根の工事だって、無計画にやってそのあいだに雨が降ってきたらどうするんだって話です。しかもその家に自分が住んでるとして、突然工事されたら困っちゃうわけです。生活が出来なくなってしまう。たとえそれがもう使っていない部屋の工事だったとしても、影響は家全体に生じるから、「この部屋だけ潰していいよ」ということは急にはできない。

 

ACの抱える問題というのはこういう感じで、回復に抵抗する心理っていうのは、こういうことの表れで、つまり自己防衛本能的なものだと思います。問題があるにせよ、いきなりそれを取り除こうとしても難しいのは、人格の構成要素として不十分なりにも役割を担ってきていて、もう使わないほうがいい習慣であったとしても、いきなりそれだけをどうこうすることはできないからです。

人の人格というのは、いろいろな要素が陳列棚にひとつひとつ手に取れるように置かれているわけではなく、建築物みたいにいろいろな要素が立体的に組み合わさって、その人なりにバランスを取りながら成立しているものなのです。(そういえば、人の体だってそうにできてますよね)

 

表面に出ている問題が、問題の全てとは限らないし、一つの要因がその問題を作っているわけでもないのです。いっぽうで、表面上の問題に対処する必要もあるし、根本的な原因を見つけ出して手を施す必要もあるわけです。

 

そんなわけで、回復するってことは基本的に良いことだとはいえ、とても面倒なのです。

 

家の工事と回復の違う点は、家を壊しても自分自身は痛くありませんが、回復のために自分の人格を変えるのは痛みが伴うということです。

 

例えば、病気であっても、ガンやイボというのは、体の細胞組織の一部になっていますから、それを力尽くで取り除こうとすると痛いですよね。

 

精神的な回復も同様で、問題を取り除こうとすると、前述したいろいろな要因に加えて、痛みを避けようとしてしまうって気持ちも働くのです。根深い習慣をえぐり出そうとすれば、それだけ痛みも強くなります。そしてそれは、ものすごく強い力で行動を左右します。

麻酔なしで手術すれば、誰だって手術台で痛みにのたうち回るでしょう。けれど思い出して再体験の痛みを感じるプロセスでは麻酔をかけるわけにもいきません。なにかで心を麻痺させていたら、治癒も生じないですから。だから変わりたくないって気持ちは生じて当然でなのです。それ自体を否定しても意味はありません。

 

回復には喜びも感じられるものですが、回復のための努力については、正直しんどいことしかありません。楽しいとか、嬉しいとか、そういうことを私は全く感じたことがありません。自分の感情の問題を見つけると、忘れてしまう前にノートに書き留めて、頭がキリキリ痛むのを感じつつ、深く掘り下げて思い出し、考察をする、ということを十年以上やり続けてきましたが、いまだって、自分の問題を認めるのは容易じゃないし、しんどいし、面倒です。楽だったことは一回もありません。

 

かなり熱心に回復・成長に取り組んでいると自任していますが、「よし、がんばるぞ」なんて思いで回復に取り組むことはまずありません。実際の所、なかなかこういう意欲が出るまで待っていることはないし、いったいいつ意欲が出るのかなんてわかりません。なんなら、出ないまま一生終わってしまうかもしれません。

 

私の場合「忘れる」というのが強く出ましたが、ほかにも「回復を妨げる自分の行動」というのは、人によっていろいろな形で出てくると思います。なんやかや理由を付けて、元の生き方に留まろうと、変わるまいとしてしまうのです。

 

「やる気スイッチ」とかいう言葉がありますが、そんな都合の良いものはたいていの人に付いていないのではないでしょうか。私の場合、「恐怖」や「危機感」に突き動かされてきたとはっきり自覚しています。前向きな努力じゃないです。過去の生き方に戻りたくない一心で頑張るのです。「絶対絶対絶対絶対に、前みたいな生き方をしたくない。そんなことしたら、発狂するか、死ぬ」とか思っているので、回復に取り組むわけです。大げさな表現じゃなくて、ほんとです。問題を見つけたらすぐに取り除こうとすることは、私のなかで「虫歯を見つけたら悪化する前に早く治療する」って感覚と同じものです。放っておいても勝手に治らないし、どうせ治療をするなら早い方がいいのです。

 

回復したくないという気持ちに反して回復するには、どうしても毎日毎日、回復したくない気持ちに付き合うことになります。回復したくない気持ちって、いつになってもなくなりません。変わりたくないって気持ちを持ちつつも、勇気を出して変わっていく方を選択する、ということの繰り返しです。

 

ありふれた答えだし、すでに前に書いていることもありますが、長丁場の回復というプロセスで効果に取り組むには習慣化することが大事です。

 

回復や成長を習慣化することで、このややこしく手間と時間がかかる回復というプロセスをやり続けるようになるわけです。ちなみに、ACの性格特徴に、習慣的行動に固執する、というのがありますが、私はその特性を回復のための行動に向けるように意識してきました。

 

気持ちの上で「いくらやっても変わらない」とか「もう手遅れだ」とか思うことはしょっちゅうありましたが、絶対にそんなことはないんです。ただ、そういう気持ちの声に騙されそうにはなります。自分のやることなすこと、すべて駄目になるっていうような強い暗示を掛けられて育ったわけですから、そういう心の声は強いです。

 

私の場合、理屈っぽいので、やることやれば回復できることを原理的に理解していることが支えになって、この声に負けずに回復への努力を続けられています。回復への信念、とかじゃありません。支えは主に、科学的な知識です。ですから、簡単・安全・確実に回復できる科学的な方法が発見されたら、私は今の七面倒なやり方をさっさと捨ててそっちを支持します。

 

回復は、外国語の勉強や、筋トレ、生活習慣病の治療に似ていると以前の記事で書きましたが、意欲とは関係なく、とにかく習慣的に「回復することをやる」ことで進むものです。意欲があればもちろんもっといいわけですが、意欲はなくともやれば回復する、ということは、回復したい気持ち100%ではなくとも、ミーティングに参加したり、瞑想や、日々気付いた感情の問題などをノートに付けること、とか、ストレス発散のために何かすること、そういうことをやるようにするのです。

 

やる気がなくともやれば回復するというのは、回復が、本質的に個人の特性や資質とは関係のない、原理的なものだという証しです。人間が回復・成長する、心身の仕組みに則っているのです。

 

モチベーションに左右されず根気よく続けて、回復にしがみついて食らいついて離さないようにやる必要があります。

 

そんなわけで、回復に取り組んでいる皆さま、「変わりたくない」とか「もうだめだ」という気持ちに引っぱられて自分を見限ったりすることのないよう、回復への努力を習慣化して根気よく成長・回復に取り組んで生きましょう!

第19回 虐待に対する社会的な無関心を嘆いても問題は解決しないので社会にあまり期待せずお互い頑張りましょう!

第18回の記事を書いていて気付いたのですが、自分がACであるという自覚、おかしな家庭で育っているという事実を認識することが、回復以前に必要です。当たり前なんですけど。

私はたまたま中学に上がる頃、図書館で読んだ心理学の本からACの知識を得ました。もう四半世紀も前です。わたしの場合はかなり早いケースで、ACであると自覚するのはたいていもっと大人になってからです。あるいは全然気付かないままに歳をとって、子どもをまたACに育ててしまっている人だって多くいます。

昨年、9歳の子どもが、親から暴力を振るわれていることを警察に訴えて親が捕まったというニュースを聞いて、すごいことだと思いました。この子どもは、自分のされていることが社会的にどういう事であるのか、何かが切っ掛けで知ったわけです。最近はニュースで虐待のことが定期的に取り上げられますから、それで知ったのかもしれません。知は力なり、です。

こんなところで提言しても仕方がないかも知れませんけども、ほんとは保健体育の授業ででも教えたら良いのです。暴力は、親からであれ誰からであれ、どんな理由を付けようが犯罪だ、と。あるいは、毎晩喧嘩したり飲んだくれている親は親の役割を果たしていないとか、アルコール依存症で病気かもしれないとか、そういうことを教えたら良いのです。そもそもそんなところで育つ子どもは保護されることがベストですが、十分な体制は整っていません。だったら、せめて知識を与えるべきです。また、自分が親になった時、自分のやっていることが虐待で犯罪だと自覚する可能性だって増すでしょうし、抑止力としても働くはずです。また、回復につながる人も増えるはずです。

ただ残念ながら今の日本は、虐待を受ける子どもにとても冷たくて、例えこうした家庭の問題に気付いて逃げたくても、受け容れてくれる場所はほとんどありません。

 「親は子どもをだいじにするもの」という、思い込みって怖いですね。この思い込みに反する例がたくさんあって、亡くなってしまう子どもだっているのに、そして亡くならないまでも苦しめられている子どもは、亡くなる子どものたぶん何十倍か、百倍かいるに、この前提で社会は動いています。不都合な事実は見たくないから見ないって事なのでしょうか?

ヒヤリハット」という言葉をご存じでしょうか? 運転免許の講習とかで教わりますよね。ハインリッヒの法則、とか言うやつです。1件の重大事故の裏には、30件の軽微な事故があり、300件のヒヤリハットがある、と。

子どもの虐待も、ニュースになるものの裏には、ニュースにならない数百件、あるいはそれ以上の虐待があるのです。死なない程度にさまざまな形で虐待されている子どもが、もの凄い人数いるわけです。

子どもが虐待で亡くなると、児童相談所がやり玉に挙げられますが、ようするに児童相談所じゃあ手に負えないのです。でも他に代わる組織もないのです。その状態がずっと続いていますが、拡充される様子はありません。

社会で大人が大人に手を挙げれば暴行傷害で犯罪ですが、親が子どもに手を挙げても、それを暴行障害で犯罪だと考える人はなぜか少ないのです。子どもの方が大人より心身共に傷つきやすく、逃げ場がないというのに。

あるいは、以前になりますが、お笑い芸人の方が、ホームレスの小学生だったとかいうことで、いっとき話題になりました。これはどうして児童福祉の観点から問題提起されなかったのでしょう? ただ「かわいそう」とか、物珍しさなのか、話題になって、本も売れたようですが、彼はどうして社会のセーフティーネットに救われなかったのでしょう? 

最近の例を挙げると、ヤフーとかで、親から虐待を受けて育ち少年院に入っていたアイドルという方が話題になって、興味を持ってインタビュー動画を見たのですが、母子家庭で育ったこの方は、まだ小さい頃に1週間母親が家を不在にしたために食べ物がなくなり空腹で死にかけた、と話していました。そしてその母親とは今同居しているそうです。思うのですが、どうしてこの母親は捕まらないのでしょう? どう考えても行いは犯罪的です。殺人未遂でしょう。こういうところでも、奇妙な「事なかれ主義」がまかり通っているようで本当に恐ろしいです。問題の軽重や良し悪しに関係なく、ともかく物事に波風立てる人への冷淡な扱いというのは日本のどんな組織でも見られるんじゃないでしょうか?

わたし自身の体験でも、大人になってから振り返って、どうして私の親や姉は捕まらないのだろうか? 捕まるのが妥当ではないか、とかなり強く思ったものです。わたしが親や姉にされたことを一般社会で誰かが他人に対して行ったら、まちがいなく逮捕されるなり会社をクビになるなりの社会的な制裁を受けます。

結局わたしの場合、確固たる証拠を残していなかったため、起訴は難しいと考えましたが。

ともあれ、日本社会では、児童虐待をしても大人はほとんど捕まらないし(捕まるようなケースは子どもが亡くなるほど酷いとき)、また「親は子どもを愛するもの」という幻想がどうやら今もあんがい広く信じられているようです。だから親権を取り上げるということをほとんどしない。虐待親の強弁が通ってしまう。あるいはこの建前をとっぱらって、子どもを愛せない親が現実には結構あるということを認めると、社会的な負担が増えるわけで、それが嫌なのかもしれません。いずれにせよ残念ながら、子どもをみんなでだいじにするという意識のない社会なのだろうと思います。

私は子供の頃、何年間も、隣近所に聞こえるくらい大声で、ほぼ毎晩泣き叫んでいましたが、近所の人が心配して見に来る、なんていうことは一度たりともありませんでした。残念ながら、ほとんど社会には期待できません。基本的に救いはなく、救われたらとてもラッキー、宝くじに当たったくらいに思っていれば間違いないですね。残念ながらそういう国なんです、現在の日本は。

だから私はこうして、死なない程度の虐待を受けて、救われないまま大人になった人たちに向けたブログを書いているのです。社会は、私たちの存在をさほど認識していませんからね。

待っていてもだれも気に掛けちゃくれませんから、私はささやかながら勝手に声を挙げているのです、「こういう人間も、いるんだぜ」って。

第18回 若いうちに回復するに越したことはない

これは、身も蓋もない事実です。タイトルの通りですが、若いうちから回復に手を付けるに越したことはありません。

ACの回復の本にはこういう基本的な事実が書いてなかったりします。

「回復に取り組むのに遅すぎるってことはない」ということは書いてあったりしますが、早い方が良いのです。

問題を片付けるにしたって、新しい生き方を身に付けるにしたって、若い方が体力気力もあるし、飲み込みもいいし、適応も早いっていうのは歴然とした事実です。

「今は仕事が忙しいから」とか思っている方は、後回しにするほど問題が大きくなること請け合いです。これは、脅しです(笑)。しかも多くの人の経験的な裏付けがあります。ただ、回復に精を出すことになるタイミングというのは人それぞれで、あんがい自力でどうにかできないものだったりします。

 また、にっちもさっちもいかなくならないと、人間わざわざ生き方を根本的に変えようなんて思わないもんですから、仕方がない面もあります。私もにっちもさっちもいかなくなったから、精出して生き方を変えたわけですし。

ただ、回復というのは長いスパンで取り組むことですから、そもそも「暇になったらやる」というのはちょっと違うのです。忙しい時には忙しいなりに、暇な時には暇な時なりに、取り組み続けるものなのです。なにしろ、自分を育て直すわけですから。子育てって、中断したり、暇な時だけ取り組むっていうわけにはいかないでしょう? 

だから、生活で日常的に「回復への取り組み」を取り入れる必要があります。回復を、生活習慣にするのです。例えば、定期的な自助グループへの参加だったり、回復について書かれた本を読むことであったり、日々自分と向き合う時間を取ることだったりします。もちろん、書き出すことも大事です。

そんなわけで、ACからの回復を選ぶかどうかは状況なりその人の考え方なりに依っていますが、もし取り組むのであれば「若いうちから手を付けるに越したことはない」という事実を知っておいて欲しいと思っています。後回しにしない方がいいよって話です。